―――俺は・・・っ!
レッドは飛び込んでから、視界の悪い水面を水泡が上へと逃げていくのを目にする。
辺り一体は光によって上部薄い青に輝いているものの、足元から先はまるで深い闇を思わせるほど暗く見えた。
シャルロットの姿は見当たらない。
―――俺は・・・っ!
自問自答するように何度も自分について考えた。
何度も何度も―――ただ『一つ』を・・・
体が重いため、沈んでいくのを感じながら目を細めて、苦しげに歯を食い縛った。
―――俺は・・・『かなづち』なんだっ!
そう内心で叫んだ途端、口元から白い泡が放出されていく。
皮肉にも、炎竜という理由からなのか。
たとえ同じ青といえど、空を泳げても、水を泳ぐごとは出来ないのだ。
助けに行くと言うよりは、後を追うように自殺しているように思えてきた。
それでも必死になってシャルロットの姿を探す。
―――が、息が続かない。
鼻から水が入り、肺が苦しむように熱くなった。
がぼりと、その口が大きく開き、大きな泡の塊りが水面へと帰っていく。
苦しげに目を閉じて、レッドは最後のあがきとばかりに、探る様にしながら暗い闇底に向かって手を伸ばす。
―――シャル・・・っ!
何かが、ひしりとその手を掴む。
**********
な・・・情けない・・・っ!
これを落ち込まずに、一体いつ落ち込むというのだろう?
レッドは力尽きたように下半身は水面に浸かったまま、上半身を地面につっぷうした状態を保ち、肩で息をついた。
ようやく得た新鮮な酸素を吸いながら、ただ疲労と脱力にうな垂れる。
―――男として・・・しかも助けに行ったはずなのに逆にその女性に助けられるって・・・
(た・・・立場が・・・無い・・・っ!)
シャルロットは既に地面へと上がり、自分のスカートを絞り上げて、元気様様に顔は笑顔に近い。
彼女の言い分はこうだ。
『手を離すなんてしないわ。ただあなたの尻尾の鱗が取れて、それを持っていた私が落ちただけよ?』
水面から水泡が出ていなかった理由はこうだ。
『あら?呼吸を止めないと浮上出来ないじゃない』
そしてトドメを刺す様にシャルロットは最後に言った。
『いなくなればいいと思われるなら、国に帰ろうと思ったの―――』
全て花を湛える如く微笑を浮かべ、陽気な声での回答だった。
―――って、なんだそりゃぁああああっ!
こちらがどれほど心配したのかすら馬鹿にされた心地に、レッドはふつふつと沸き起こる怒りに心を煮えらせる。
しかし不思議と憎しみに似た感情などではなく、本当に自然な怒り―――
こんな怒り方をしたのは、初めてかもしれない。
レッドはそんな事を考えながら息をついていると、近づいて来たシャルロットに気が付いて、少し顔を上げた。
「レッド・・・。ごめなさい。謝っても、怒りが収まらないのは重々承知よ。それでも、分って欲しいわ。私、あなたが大好きなのよ?」
「・・・。大好きなんて―――嘘だ」
「何故そう思うの?」
そっぽを向いて、不機嫌そうに瞼を少し閉じたレッドに、シャルロットは再び目を合わせるために顔を向けてくる。
濡れた髪が頬にこびり付き、びっしょりのドレスから水滴が零れ落ちた。
「・・・。俺はお前を傷つけた事しかないからだ。傷つける奴を好きだなんて・・・そんな奴いない。だからそんなのは嘘だ。お前は優しいから、俺に気を使ってるつもりなんだろう。だが、同情なんて、いらない。空しいだけだ」
「―――同情なんかじゃないわっ!」
シャルロットは心外だと言わんばかりに怒り出し、レッドをその小さく白い指先で触れようと伸ばす。
しかし、レッドの体には条件反射が出来ていて、拒絶するように閉じていた翼を広げると、前足に力を入れて退歩した。
触れるに触れられなかった。掴むのに掴めなかった。
シャルロットは戸惑うばかり。狼狽し、慌て、悲しそうに。
「レッドっ・・・!」
「気安く『大好き』だなんて言うな・・・っ!」
けれどそれ以上に。レッドの眼には複雑な感情が入り混じり、首を持ち上げて、見上げるシャルロットに怒る事無くそう言った。
それでもシャルロットは、負けじと首を左右に振り、一心にこちらを見つめられればレッドの視線はそれから逃れてしまう。
「いいえっ!私は何度だって言うわ・・・っ!レッド!私はあなたが大好き。大好きなのよ。―――理由なんて尋ねないでね。私にも分らないもの。大好きに理由なんて無いはずよ。ただ、レッドと一緒にいるのは楽しいの。白黒だった世界に色がついたみたいに、私は今幸せ絶好調なの。大好き。レッド、レッド。ねぇ、私はあなたが大好きなのよっ!」
「―――何度言われたって・・・俺には嘘にしか聞こえない」
「レッドっ!」
名前を苦しそうに呼ぶシャルロットに構わず、レッドの体が僅かに宙に浮いた。
また自分は・・・逃げようとしている。
けれど一体何から?
シャルロットから?
大好きと叫ぶその言葉から?
それとも―――
己の気持ちからか??
「レッドっ!?どこへ行ってしまうのっ!?」
慌てたような声と共に、シャルロットがレッドの首にしがみ付く。
赤い双翼がその場で硬直し、水面が緩やかに円を描いて広がっていった。
「ごめんなさい・・・っ!傷つけてごめんなさいっ!ごめんなさい・・・っ!」
しかし焼けるような音も、痛むような声も無い。
それに驚いたのはレッドだ。
―――今まで触れられれば火傷を負わせていたと言うのに、何故・・・?
否定しても否定し続けても、彼女はまるで風のようにそれを受け流してしまう。
けれどそれは不快などではない。だから困るのだ。
何故触れ合うことが許されたのか。
何故世界は―――
神様は―――・・・
疑問の念よりも早く、今まで感じた事の無い心地に目元が緩くなる。
シャルロットの体は―――柔らかい。
ああ。人ってこんなにも温かいんだ―――
良い匂いで、心地が良い。
生まれて初めて、人の感触を知ったような気がした。
これが人の感触―――
しかしそれを自覚した途端、シャルロットが抱きついている事実にレッドは目を見開いた。
「・・・っ!?」
ぼんと、顔が一気に赤くなるような心地がする。
シャルロットは叫ぶように尚も続けた。
「私はあなたが大好きなの・・・っ!本当に好きなんだからっ!信じてっ?私あなたを嫌いになんてなりたくないものっ!好きだから嫌いになんてなりたくないわっ!だから拒絶しないで・・・っ!お願いだから―――」
必死なその声が。真剣なその眼差しが。歪みの無いその瞳が。
―――嬉しい・・・
レッドは諦めにも似た心地でため息をつく。
何故意地を張っていたのか、シャルロットが傍にいるだけで分らなくなった。
「―――シャル・・・」
空気に溶け込んでしまいそうなほど小さな太い声が、シャルロットに囁いた。
―――ごめん・・・
レッドのその一言に、シャルロットがその首から顔を離し、レッドを凝視する。
思わずと言った様子で出てしまった謝罪の言葉に驚いたのはレッド自身だ。
謝る・・・?
謝った事など、ただ一度だってなかった自分がたった今謝った・・・?
しかし不思議と恥ずかしい気持ちを抱かず、ただ照れくさい気持ちだけが残る。
一心に見るシャルロットの目が、綻んだ。
「レッド・・・っ!」
嬉しそうに、再びシャルロットはその長い首に抱きつく。
しゃきりと、体が硬直するのを感じながら、レッドはどうかこの心拍音がシャルロットに聞こえません様にと祈る。
「やっぱり分かり合えたわっ!レッドっ!うれしい・・・!!」
「―――べ、別に・・・っ!ただ俺が悪者みたいで嫌だっただけだ・・・っ!」
相変わらず皮肉な口は変わらないが、それに構わすシャルロットの喜んだ気配だけが鱗から皮膚に伝わり、皮膚から体へと浸透していく。
―――暖かい
それは肉体的な感情だけでない。
「・・・レッド・・・?」
ふいに、不思議そうな声が、レッドの名前を呼ぶ。
何故疑問になったような尋ね方をするのかと、一瞬怪訝に思ったがその理由を直ぐに悟った。
シャルロットが向いている方向は、水辺。
ああ。そうか―――
シャルロットは―――きっと水面に映った青年を見たのだろう。
驚いたようなシャルロットの声が、再び名前を呼ぶ。
「レッド・・・?」
「―――ああ」
「・・・。・・・水の中で誰かが沈んでるわ。溺れているのかしら?」
「―――・・・言うと思ったさ」
ため息にも似た調子で、レッドは答えた。
そもそも、誰だってそう思ってしまうはずだ。
現実ではドラゴンの姿なのに、水辺に映れば青年に見えるなど・・・―――
シャルロットはただ不思議そうに水面を見ている。
レッドは話す決意をした。
何故・・・『世界で一番美しいモノ』を探そうとしているのかを―――
**********
夕暮れに近い太陽の傾き。
どこも店を畳み始め、国の活気はなくなりつつある。
シャルロットが誘拐された事実は目撃者の発言の元・国中で噂となり、少なからず城では沸騰した噂の熱を冷まそうと鎮圧に力をいれているらしい。
国の者たちは王女不在の情報を聞き、身も蓋もない噂話で熱をあげ、王女の無事を願う者達が教会へ押し掛けてくる始末だ。
さてはて、日差しの強かった今日を振り返ればなんと長かった事か。
アベルジ王国第4部隊・近衛を主に勤める派兵達は、休まる時を与えられない心境にすっかり額に汗を貯めていた。
跨っている馬が、まったく微動だすらしてくれない飼い主に付き合っているのだが、脚を動かしたり、嘶きで叫んだりと暇を訴えている。
漆黒の闇に包まれた、禿山を囲い込む魔の森を、また更に囲い込んでいるのは理由があった。
―――王女救出の任を受けたイージェスト<奈落者>はまだ戻らぬというのか
アゼフ将軍はすっかり年を取ってしまったような白髪を蓄えていたが、その巌窟の眼だけは油断を見せず。
決して王女の誘拐された森から、一瞬でも目を背けるものかと、その眼力に睨まれれば瞬時に穴が開きそうで。
数少ない遣兵を駆使して森を何週も周ってはいるが、まったく姿形どこから影すらも見つけることは適わなかった。
それどころか、あまりにも騒がしいと森に潜む魔物も感じたのだろう。
眠りから覚めた若い魔物の襲撃に一部の派兵が怪我を負い、重症となった者もいるという。
それに恐れおののき、平和呆けをしている部隊ではあるが、王女を想う気持ちは愛国心に等しく。もしくはそれ以上に。
すっかり夕闇に染まりかかった空を見上げても、彼らを束ねる将軍は決して退歩する事は無かった。
「アゼフ将軍」
ふいに、黒馬に跨った一人の派兵が近づいてきた。
アゼフはむろん、その時ですら目線をずらすことは無く。
「・・・。何か動きはあったか」
「いえ」
「―――何かしら理由があって来たのだろう?何用だ」
「・・・。本来ならば良きご報告を申し上げた所ですが・・・。アゼフ将軍、少しお休みになられてくださればと。お食事もまったく手をつけていらっしゃらないとお伺い致しました」
「我らのプリンセスが今この空のどこかで苦しんでいらっしゃるのだ。これはプリンセスを止められなかった私の責任。それだというのに、何故喉に食事が通るというのか」
「しかしこのままでは、あなた様が・・・」
「・・・。要らぬ心配は無用。老いたとはいえ、衰退したつもりは無い。それよりも監視の目を怠るな。いつ何時魔物が出るかもしれぬのだ。この木偶を想ってくれるのならば、己の身を重々守るように」
「アゼフ将軍・・・」
「全て、私の責任なんだ。全て―――・・・」
すっかり張り合いも何もなくなってしまったアゼフに、叱られる回数の多かった派兵の多くは同情するばかり。
それ以上に、もしも王女の身に何かあればと思うと、我が子の事の様にそれを恐れ、胸が焦がれるのを多くの者が知った。
アゼフは王女誕生以来、その成長を後ろで見守ってきた存在であり、その気持ちはなお更だ。
その翡翠の眼は王女の無事を信じて疑わない―――そんな真っ直ぐな眼差しが、不意に揺れ動いた。
目を細め、馬を操る手綱を動かす。
無言のまま馬を森へと近づけさせるアゼフに、周りで目を皿にしていた派兵達もそれに続いた。
アゼフは一体何に向かって走り出したのか―――それは暗闇に支配された森から逃れるように歩いてくる一つの影が浮かんでいた事が関係しているのだろう。
少しずつ光を纏って。よろよろと、左右に揺れる人影はどこか不自然で。
「アゼフ将軍!!お下がりください」
「よい。武器は常、この手にある」
怪我を負っているようで、右手で左手を支えながら歩いている。
漆黒の髪。片目に古傷を負い、年の割りには少し老けてみるのは、髭を蓄えたその頬の窶れが関係しているのかもしれない。
その服装も最初の頃と比べれば随分と貧気になり、ところどころが焼け爛れてるようにも見える。
遠くからでも分るその姿はまさしく負け戦から命からがら帰還したような兵士を思わせ、しかし近づいてくれば来るほどその印象も変わってしまった。
(あれは確かに奈落者<イージェスト>だったはず・・・っ!!しかし・・・)
―――あの鋭い、眼光は一体
最初の頃の、あの馬鹿にしたような柔い目つきが嘘のように消え、今はただ真っ直ぐの瞳が一心にこちらを―――いや、別の場所を見ているように思える。
口を閉ざし、その姿はまるでイージェスト<奈落者>などという職柄ではなく、もっと名誉ある職にでも就いていそうな威厳がその男にはあった。
しかし何故一人で帰還を果たしているのかと不信感を募らせたその時だ。
怒りに身を任せるような、怒涛の咆哮が空気を振るわせた。
本能のように身を竦ませてしまうこの感覚。誰もが、一度や二度ではない体験に武器を構える。
男もそれに気づいてはいるが、立ち止まるだけで身を守ろうとはしなかった。
得体の知れない森の闇。赤い閃光が走る。
「魔物だ!!」
誰かが警告を兼ねてそう叫ぶ。
同時に、森の入り口から吐き出されたのは、人の二倍以上は確実にあるであろう熊に似た異形。
眠りを妨げられた獣の怒りはすさまじく。
その眼に射られただけで脚はすくみ上がる迫力は、免疫のついていない者に逃げる頭は無い。
ただ、己の終わりをその眼で見届けるのみ。
再び咆哮し、その魔物は真っ直ぐとアゼフ将軍に向かって―――否。
その手前にいる男に向かって長い爪を構えた。
「いかん!!」
たとえそれが敵<イージェスト>であっても。
アゼフは骨の髄から身についてしまった正義感が槍を握り締め、馬を走らせていた。
しかし、とてもそれは間に合いそうな距離ではなく。
男の体が全て魔物の影に覆われた瞬間だった。
それは―――
本当に、一瞬の事で。
男が後ろを振り返った刹那だったはずだ。
何かが光ったかと思えば、赤い軌跡が楕円を描いて地面に刻まれていた。
それは先ほどはなかった模様である。
しかも、今まさにその爪を振り下ろそうとしていた魔物だったが、奇妙にもまるで時が止まったかのように微動だしない。
「あ・・・」
誰かが何かに気づき声を漏らす。
それにつられる様にして男を―――正確には下ろされた手に握られている剣を凝視した。
それは赤く染まり、留めなく溢れ出す血が地面に零れ落ちていく。
何かが緩んだと同時に、微動だしなかった巨体は真横に倒れ、思わぬ地響きに馬が悲鳴のように嘶いた。
「・・・」
一体何が起こったのか。
その魔物を見れば、胸元辺りが妙に血塗れていて。恐らく致命傷を負ったのは隋となる心臓。
しかし、リーチ<長さ>の足りぬあの剣でどうやればあの巨体を仕留められるというのか。
それは尋常では到底理解出来ない現象だった。
「なんと・・・!!あやつ、剣の波撃で打ち負かしたのか・・・!!」
毀れたアゼフの言葉に、冗談などとはその様子から言えるはずも無い。
自身の体を驚愕で震わせるほどの様子に、状況を理解出来なかった派兵達は生唾を飲み込むばかり。
アゼフの呟きに気づいたのか―――男は血塗れた剣を魔物に向かって投げ捨てると、森に背を向けた。
今にも倒れてしまいそうな様子とは対照的に、彼の顔つきにはどこか本能を震わせる何かを匂わせる。
それはまさしく覚悟を決めた者の目だ。
男は、アゼフを見るなりその眼光は力強さを増し、何か不穏な空気を感じ取り馬でその真下にまで近づけば、食いつくように訴えた。
「国王陛下に直訴させていただきたい!!」
第一声の、怒号に似た叫びは周りの者が驚くほど凄まじく。
一瞬背筋がびりびりと走ったような錯覚に、誰もがこの下落した男を凝視した。
突然の申し出に、アゼフはむろん青筋を立て、それを却下する。
「何を恐れ多い事を言っている!!プリンセスはいずこだ!!」
「―――頼む。国王陛下に進言を」
「イージェスト<奈落者>が血迷いごとを・・・!!国王の勅命はどうした?それを果たせず戻ってきたのか?!」
「・・・。その通りだ」
「ドラゴンに恐れおののき、尻尾を巻いて逃げてきた訳だな!!」
男は不愉快そうに眉を寄せた。それが彼の逆鱗を触れた一言などとは、アゼフが気づくはずもなく。
「―――怖気付いて逃げた訳じゃない」
アゼフが汚物でも目の当たりにしたように、眉間の皺を深く寄せた。
彼の目には、長年復讐の念を抱いていた相手を見るような敵対心が豪と燃え上がっている。
栄冠の武術名門家出身故、卑賤な者を軽んじている様は誰よりも強く、確かなものとなっていた。
「怖気た訳ではない?それこそ疑わしいものだ。―――それ以外何が考えられる?愛国心の欠片を失い、自尊心すら皆無の無頼の徒が!!」
「・・・。あんたの言う通りな、確かに俺は薄汚いイージェスト<奈落者>だろうよ・・・!!どんな罵声や冷視にも慣れたつもりだが、俺が『腰を抜かした腑抜け』なんぞと言われて、黙っていられるほど俺はプライドは捨てたつもりは無い」
「何とも不憫な男よ。イージェスト<奈落者>に堕ちて尚、プライド云々と謳えるとは―――」
「あんたはイージェスト<奈落者>イージェスト<奈落者>煩わしい野郎だ!下々なんぞの言葉なんて聞く耳も無い訳か?お前のように立派な騎士様だったらいい訳か?市民権を持ってる奴が全てなのか?お前こそ王女が大事なら、王の命令に背いてでも助けに来ればよかっただろうに!!靡くだけの騎士が!!そもそも、退歩と逃げる事は違うだろ!!俺はあんなドラゴン如きに遅れは取らないつもりだ!!」
「ふん。落ちぶれ無勢が随分吠えてくれる!!まだその様な見栄を張るか。元よりお前の様な下種の力なんざ借りるなど、私は反対だったのだ!!アベルジ王国始まって以来の大恥!!やはり最初から我ら第4部隊が出陣しておれば良かったのだ!!」
途端に、男の漆黒に染まった瞳が獣の様に鋭く細まった。
「ふざけるなよ。偏屈の初老が!!百歩譲ってあんた一人ならこの森の魔物は退治出来るだろう。だが、一匹に数人で掛からなければ倒せぬ軍勢に、敵地へ踏み込む勇気はあるのか!!屍を増やすだけだろ!!」
「一度ならず、二度までも!!貴様はまたしてもアベルジの子供達<我々>を侮辱したな・・・っ!!私の剣が貴様の首を跳ね飛ばす前に、早々宝を置いて立ち去れ!!」
顔を真っ赤にし、魔物も恐れるその形相で一喝し、アゼフは腰に装備していた剣を抜いて、それを男に突きつけた。
本当に鼻先の皮一枚を捲っての宣告に、大抵の者は泡を吹いて倒れてしまうというのに、この男だけはその素振りも見せはしない。
それどころか、あきれ返りため息を一つ。
その余裕は一体どこから出てくるというのだ!!
「―――宝はドラゴンに破壊された」
「何を馬鹿な!!あれはダイヤモンドを勝る硬度を持った我が国最高の国宝!!万人があれを加工しようと試みたが今だ嘗て砕くどころか欠片すらも作れなかった代物だぞ!!」
「相手は最強<赤>を身に纏ったドラゴン。ダイヤなど、その拳を握れば石ころのように簡単に崩れる。なんなら俺が殺された他のイージェスト<奈落者>の死体と共に証拠をあんたの目に突き付けてやってもいい。だがその前に、俺はどうしても王にお伝えしたい事があるんだ。俺を突き出すのもそれからでも構わないはずだろう?王女の身を一番に考えるあんたならこれを断るなんて言わせない。―――それとも、あんたは主の身を案じるより、アベルジ王国の面子を優先するか?」
「貴様のような成らず者の何を信じろと言うのだ!!王に拝謁せずともこの場で報告すれば良かろう!!」
「あんたじゃ話にならない。軍を与える権利を持つアベルジ国王で無ければ!!」
「―――貴様、一体何を企んでいる・・・!」
まるで焦っているその男に―――いや、真摯に訴えてくるその男の剣幕さに、騎士としての直感に引っかかるものを感じ、アゼフの憤りは少しずつ収まっていく。
「決まっているだろう。王女救出のためだ」
「ならず者の心意気など当てになどならぬ!!」
段々と男の顔に、飽きれの色が出始めた。
このままでは埒があかない。けれどどうにも出来ない事態に地団駄を踏む代わりに、男は黒髪をくしゃりと混ぜ合わせる。
「ああ・・・!!話にならない!!昔っからあんたとは話が合わないと思っていたが、ここまでとは・・・!!トリスト家は代々こう、国王には尻尾を振る癖に、それ以外には牙を剥いて吼えるだけだから大嫌いなんだ・・・!!自尊心の高い飼い犬が・・・!!まるで『本家』を見ているようだ・・・!!俺を信用してくれと頼んでるわけじゃないというのに。俺はただ進言させてもらえればそれだけでいいんだ!!何も減るものはないだろう!?」
不意に沈黙が生じた。
派兵達すらも驚きと動揺で森から目を離して、このイージェスト<奈落者>を凝視した。
疑問が次々と浮上し、どこから問えばいいのか分らず。
アゼフ・『トリスト』は―――整理のついたアゼフは、顔を険しくさせたまま幾分か声を潜ませる。
「―――どこで聞いたかは知らないがな、お前に軽々しく我が家系<トリスト>の名を呼ぶ資格など無い!!貴様のような外道の口から聞く日がこようとは―――それだけで吐き気がするわ!!」
「その昔、目の前にいる下郎に名乗ったあんたがそれを言うなんざ、これは傑作だ。どうせだ、俺の事を思い出してもらおうか?過去とは言え、身分相当であれば聞いてくれそうだな・・・。ああ、それはいい。早く思い出せ」
「・・・貴様、一体何を言っている?我々を惑わせる作戦か?」
すると、男は不満そうに腕を組み、苦々しい追想に顔を歪ませた。
「ふん。本当は落ちぶれたこんな姿、あんたには見られたくなかったさ。だがな、恥を惜しんで名乗ろうとも。俺はあんたとは一度手合わせしている身だ。大理石と翡翠に囲まれ、だが贅沢を許さない構造の決闘場。その時は互いの交流を深める意味合いと、どれほどの郡力があるのかを視察するために訪れた時さ。あんたはその代表者として、俺とやりあった。その時あんたは確かに名乗った。槍の使い手としてはアベルジ王国最強である、当時兵士長だったアベルジ・アゼルーフ・トリスト殿。こういえば信じてもらいるのか?進言もOKか?」
男は半ばヤケクソのように早口で告げてから、不適に笑った。
その野心に満ちた眼。不精髭を蓄え、身なりも朧な男だったが、どこかで見た事があるような気がしないでもない。
しかしどこで?誰と勘違いしている?
アゼフの思考が少しずつ冷静さを取り戻し、剣を下ろした。
「貴様―――名は?」
**********
突然と目を覚ませば、そこは見知らぬ土地。
何故ここにいるのかと、ただ自分の存在すらも忘れたように唖然とした。
―――ここはどこで、己は一体誰だったのか・・・?
記憶と言うものを最初から持っていなかったとさえ思え、そう思えば自分は今生まれたのだとも感じ始めた。
荒れ果てた山に、下は不気味な森の影。
―――ああ・・・醜い
この世界は醜い。
最初から嫌悪の念だけが胸に疼き、不安よりもまず、言葉が頭に響いた。
―――世界で一番美しいモノ・・・
しかし何故そんな言葉が残っているのか―――
ただそれを探せと、何かが強く訴えかけた。
そうでなければ―――・・・
だから探した。探して探して探して、それでも見つからない。
無い・・・無い・・・そんなものは、無い・・・。
いくら探しても、いくら求めても穢れた世界にそんなものが存在しない。
綺麗な宝石。これも違う。綺麗な景色。これも違う。綺麗な綺麗な―――・・・
汚れた世界にそんなものは無いんだ。
色んな国を見て周り、色んな人に罵声と恐怖の対象として忌み嫌われた。
何故そんな目で見る。
何故そんな顔をする。
何故―――?
知らなかったのだ。
自分がドラゴンと呼ばれる化け物だという事実を―――
それを知ったのは、ある国の子供にそう叫んで泣かれた時だ。
この時初めて自分の皮膚が赤い事も、鱗が付いている事も尻尾が長い事も知った。
醜かった。世界が醜いのと同じように自分もまた醜い姿だったのだ。
これが世界を嫌った『罰』だというのか―――?
嫌いだ。醜い姿にした世界が嫌いだ。
汚い。汚れている。世界は―――汚れている。
ただ、唯一知らない自分の顔を見ようと、恐る恐る水溜りに顔を写してみた。
自分とは異なった白い肌を持つ『人』と呼ばれる綺麗な青年が、こちらを睨むように見ていた。
確かに、その顔は美麗で美しいのかもしれない。
それでもそうは思わなかった。
酷く近い存在であり、よく知っている青年の顔。
―――嫌いだ
お前など大嫌いだ。
その赤い目。その目が一番嫌いだ。
苛々する顔だ。死んでしまえ。この世から消えてなくなれ。
理由なんて分らない。
ただどうしようもなく嫌いなのだ。
それでも救ってやらなければいけない気がする。
救わなければ・・・このままじゃ・・・。
―――このままじゃ?
分らない。一体自分が何を求めているのか分らなくなる。
―――お前は・・・誰だ?
鏡のように映し出る、名も知らない青年。
俺はお前が嫌いだ。
この世は嫌いだらけ。
この世が嫌いだから、綺麗なモノなど認めたくない。
世界で一番美しいモノ―――それは永遠に見つからないとさえ感じ始めた時だ。
風の噂を・・・聞いた。
花と華に包まれた美しい王国。そこに住むのは、身も心も綺麗な一人の王女様。
彼女が嫁ぐ先は隣国の第二王子の元―――
そう聞いた瞬間、どうしようもなく、居ても立ってもいられなくなった。
どうしようもなく、会いに行きたいと思ったのだ。
この時はただの興味だけだったし、ましてや会えるとさえ思わなかった。
事実―――出会ったのがその王女様。
綺麗だった。美しかった。
身も心も全て―――
同時にこうも違う事に対する差別意識が、それを嫌悪してしまう。
許せない。疎ましい。妬ましい。
しかしそれ以上に―――・・・
**********
「羨ましい・・・。シャル。俺はお前が羨ましいよ。世界に好かれて、愛されて。だから綺麗なんだって思ったから、羨ましかった。世界は美しいと言えて、どれも綺麗だと言ってしまう。俺にはそれが出来ないから、羨ましいと思った」
青年の悲しげに微笑む顔を眺めながら、レッドは息をつく。
シャルロットもその青年を物珍しげに見つめ、口を開く事無く耳を傾けていた。
仄かに黄色に輝いた月が水辺に写り、辺りがすでに夜である事を教え、それでも二人は動く事無くただ同じ視点で時を同じくして過ごしている。
ふいに、シャルロットは視点を空に移してから、呟いた。
「―――世界は美しいわ」
「・・・。・・・もうそれは分ったから・・・」
水面ギリギリの隔たりで、犬のようにお座りをしたレッドの隣にはシャルロットが寄り添うようにその淵に座っていた。
紺に近い夜空に星が散り葉まれ、レッドもそれを眩しそうに眺める。
その雰囲気は最初の頃とは比べものにならないほど穏やかで、レッドにいたっては時々シャルロットを盗み見る視線が幸せそうに綻んでいた。
シャルロットはレッドの視線を感じたように頭を巡らせれば、レッドが慌てたように星空へ視線を上げる。
「綺麗ね、星空・・・。キラキラ輝いていて、まるでダイヤモンドを散りばめたみたい」
シャルロットはぽつりとそう呟いた。
再びシャルロットの視線が星空に移ると、レッドは性懲りも無く瞳をシャルロットの横顔に向けた。
髪は男のように切られてしまった。その服装だって既にお姫様とはかけ離れた印象しかない。首もとやその両手には痛々しい蚯蚓腫れや火傷の跡が残り、顔の傷だって多い。
それでも・・・
―――お前の方が・・・綺麗だ・・・
(―――なんて恥ずかし過ぎてそんな事言えるかぁああああっ!)
レッドは内心の心情を羞恥するように心で断末魔の如く叫んだ。
そんなありふれた決まり文句など死んでも言えない。
甘すぎて反吐が出そうだ。
自分の心に『おえっ・・・』と、自己嫌悪するようにげっそりした様子を見せたまま、シャルロットをちらりと見してしまった。
「私ね、水で頭を冷やしているうちに思ったのよ」
「・・・。・・・何を?」
シャルロットは空を輝く星を眺めながら、それに惚けるように目を細める。
「レッドは私を『嫌い』と言ったけど、それは嘘だと思うわ。レッドは本当に優しくて、少し不器用で、ほんのちょこっとプライドが高いだけなの」
「―――・・・俺が言うのもあれだが、お前の感覚はおかしいんだって。俺は優しくなんてないんだよ・・・」
「あら。レッドは優しいわ。優しいもの」
話の展開が読めないレッドは怪訝そうに目を細める。
「―――嫌い嫌いも好きのうちって言うじゃない?私があなたに『好き』と言うと、あなたは嫌がるから、あえてこういう事にするわ」
シャルロットはもうこれ以上に無いほど笑みを深くして、高らかにこう言ってしまった。
「私―――あなたが大嫌い」
沈黙が、生じた―――
その言葉とその表情は明らかに矛盾している。
そして一切の悪意が無いその発言に、レッドは魚のように口をぱくぱくと上下させ、やがては掠れた声がシャルロットに言った。
「・・・おま・・・っ!・・・嫌い・・・って・・・おま・・・っ!」
ちょっと内心傷ついた。笑顔が見れたのは嬉しいが、その言葉はとても胸に突き刺さる。
そんなレッドの微妙な心境を悟らぬまま、シャルロットは心外そうに目を丸くした。
「あら?『大好き』と言うとあなたは怒るから、『大嫌い』と言ってみたのよ?喧嘩するほど仲がいいと言うのはまさにこの事を言うのねっ!勉強になったわ。とりあえず愛情の裏返しだと思ってね?レッドが私に大嫌いと言うのも、もうこれで怖くないわ。むしろ嬉しい言葉なのねっ!」
シャルロットは笑みを綻ばせて、更に続ける。
「レッドっ!大嫌いよっ!ものすごく大嫌いなんだからっ!レッドも私が大嫌いでしょ?私もレッドが大嫌いっ!ふふふ。愛情の種類って幅広いのねっ!だからこそ世界は美しいわっ!美しいだけ愛の数があるのっ!素敵ねレッドっ!」
レッドの心に、綺麗なバラの棘が一気にちくちくと突き刺さった。
純粋故の惨忍さと言うか・・・。こんな真っ直ぐに言われてしまえば怒る気も悲しむ気も―――それどころか諦めの感情が大きく上回っている。
―――ああ・・・。世界は広い
今にも踊り出しそうなシャルロットに、レッドは遠くの人を見るような目で見守った。
「だからって・・・その言い回しも・・・」
穢れた言葉が、翳れて聞こえない。
罵る言葉が、なんだかアホに聞こえてくる。
なんともいえない表情ではにかみながらも、レッドは言った。
「・・・。微妙だ・・・」
それでも、レッドには少し救われたような心地があった。
穢れた事しか言えない穢れた自分。
そんな自分の穢れた言葉が、少女の一言でこんなにも印象が違ってきてしまったのだから。
嫌い嫌い大嫌い―――
まるで呪文のように頭を回っていた言葉は、今ではシャルロットのお陰で呪縛から解き放たれたような心境にレッドは薄く微笑んだ。
「―――俺もお前が大嫌いだよ」
その言葉に、濁りは無い。
ただシャルロットがその言葉に微笑んでくれた事が―――何よりも嬉しい。
傷つける言葉が魔法のように救いの言葉へと変わってしまった。
シャル・・・―――お前はすごいな・・・
まぶしい太陽でも見るようにレッドが目元を和ませれば、シャルロットは嬉しくなったようにまた言ってしまう。
「私も大嫌いよっ!」
「・・・・・・」
―――けど・・・。
やっぱり、微妙だ―――・・・
推敲更新日
2008年10月05日