世界で一番・・・<第6話>






「離して・・・っ!!レッドを、彼を止めないと・・・っ!!」
「あんたに何が出来るってんだ。少し黙ってろ」
「今助けに行けばきっとあの人は助かるわっ!!助かる命を見殺しにしてもいいとおっしゃるのっ!!」

肩に背負ったまま離さない束縛に脚をバタつかせても、吊り上げられた魚に抵抗は皆無。
気になる後方がどんどん離れていく。

(レッド・・・っ!殺したら駄目なの・・・っ!殺さないで・・・っ!)

既に手遅れと知らないシャルロットはただ神に祈るような想いで願い続ける。
ついに観念したように叫ぶ事も暴れる事もしないまま、頭に血が上らないように男の背に腕をついて、泣きそうになるのを必死で堪えていた。
堪えていたが、やはり罪悪感は小さなシャルロットを押しつぶしてしまう。
シャルロットが震えているのを知って、ふいに男はその場で立ち止まった。
苦しそうに肩を上下させながらも、しかしまだ余裕が幾分か残して。

「―――泣くくらいなら最初から城を抜け出すんじゃねぇよ、世間知らずの姫さん・・・それは自業自得ってもんだぜ」
「・・・」

己を責めるように、シャルロットは血の気が失せるほど拳を握り締めた。
背中ですすり泣くシャルロット。このままではその罪の重さに少女は精神的に追い詰められ、いずれは倒れてしまうだろう。
男はため息を零した。

「少なくとも、あんたのせいじゃないさ。それも、偽物なんぞを渡したあいつらの自業自得じゃねぇか」
「あなたはあの人達のお仲間なのでしょう・・・!!悲しくないの・・・?私を、責めないの・・・?」
「―――は」

何を馬鹿な、と男は鼻先で笑った。
腰を屈み、シャルロットを丁寧に肩から下ろすと、彼女を見ることも無く鎧姿のその男は縋るようにして適当な木に向って歩き出す。
まるで崩れ落ちるように男が樹木に背を凭れ、片足を折って腕を置いた。

「―――誰が俺を殺そうと目論んでた奴を仲間と言えるんだよ。それでも俺の仲間だってあんたが言うんだったらそういう事にしといてくれりゃいい。同類である事を否定はしねぇからな」
「・・・殺そうと・・・?―――何故?」
「仲間じゃないって事だ」

その言葉に、びくりとシャルロットの肩が跳ね上がった。
どこか怯えた様子で―――しかし哀れむように唇を噤む。

「・・・ごめんなさい」
「―――謝られる覚えはねぇよ」

男の声は兜に篭っていても聞き取りやすかった。鎧に着慣れているのだろうか。
その場で座り込んだ彼の下へシャルロットは駆け寄ってみれば、まるで子犬のような彼女の行動に男が理解不可能だと口元を歪めた。

「俺はあいつらが皆殺しにされる所を、あんたが野郎共に襲われている所さえも見てたんだよ。じっとな。―――つまり、そういう事だ」
「え・・・っ?」
「―――アイツ<ドラゴン>が奴らを殺さなければ、俺が殺してたのさ。そういう約束で俺はここにいるんだよ」
「・・・意味が、よく・・・」
「そういう『依頼』だったって言えばあんたは分るか?まさかのドラゴンの出現は予想外だったがな、万事休すだ。お陰さんで俺は楽々と目的が果たせそうだぜ」

「レッドが殺さなければ、あなたが殺していたとでもおっしゃるの・・・?」
「そうだ」
「何故・・・?何故そんな・・・」
「仕事だからだ」
「そんな、酷いわ・・・!!」
「―――酷い?」

男は鼻先で笑った。

しかし明るく笑ったように見せて、その声は抑えたように低い。

「あんたは何も知らずに肉や魚を食べてるんだろうが、その肉だって誰かが生き物殺して捌いたから食べれるんだ。あんたは、生き物を殺した人間に向かって『酷い』と言うのかい?―――確かに俺のやろうとしている事は正しいとはいえねぇよな。だけどな、何も知らずにのけのけと暮らしてきた、空腹さえ経験のない人間にどうこう言われる筋合いはねぇよ」

男はその続きを飲み込んだ。
その『仕事』を命じた本人があなたの父親であると、全てはあなたのために人が死んだのだと―――そんな皮肉は言わなかった。
並みならぬ男の気迫に、自分の失態と感じたのか、シャルロットは顔を曇らせた。


「・・・。ごめんなさい」


汗で額が光っているのを目にするとシャルロットは懐のドレスを弄って白いレースの手拭を取り出し、無言のまま男に差し出した。
男は、怒った様子も無く、ただ弱ったとでも言うようにため息を大きく零す。

「・・・何の真似だ?同情か?それとも単なる気まぐれか?」

警戒したような、それでいて自嘲するような笑みを浮べながら、それを受け取る事無かった。

「私の城に、私のことを大事にしてくれる方がいるの。名前をアゼフというのだけど、彼は私を護衛してくださる将軍様なの。強くて格好よくて。弱音なんて絶対に吐かない、そんな姿も見せないお強い人なのよ。けれど彼はおっしゃったわ。兜の中は冬だろうと暑いのだと。それはもう息苦しそうに」
「ああ、そうだな。まったくこん中はどんなに着慣れようと暑くてたまんねぇよ。慣れなんて一生来ねぇだろうな」

確かにその服装は見ているだけで暑く、むしろ着膨れしている様子だ。
アベルゼ王国まで短縮の逃亡劇。逃げるためには防具などはもう必要ないと判断したのだろう。
男は慣れた手つきで兜や鎧の金具を外して、身軽な格好へと変身した。
硬い音を立てて、重いそれらは地面に零れ落ちる。

「ふぅ・・・」

ようやく新鮮な空気が吸えたと言わんばかり。息をついて、男のその容姿が露になる。
漆黒の髪は汗を染み込んで濡れている。まるで雑草のように四方八方に跳ね上がり、まるで寝起きのようだ。
黒髭を蓄えていて、掘り深いその顔を見れば恐らく年齢よりも老けて見えるかもしれない。
顔色は土色。疲れたような色が浮き出て、その頬はやせ細っているせいか少しこけているようだ。
しかし、彼は若いのだと、分る。

「あなた・・・」

シャルロットは吐くべき息を止めてしまった。
覗き込むように男の顔を、それこそ男こそが顔を逸らしてしまうほど凝視する。
やはり見間違いでは無いと分かると、哀れむように睫を伏せるのであった。
男からしてみればそれが不快でしょうがない。

「・・・」
「同情はもう勘弁してくれ」
「だって・・・」

見れば伸びきった前髪に隠れたその漆黒の瞳。
レッドそっくりな獣に近い瞳孔は見ているだけで、本能のように畏まってしまいそうだ。

しかしもう片方は―――

閉じた瞼を引き裂くように、一線の傷が深く残っていた。
おそらく既に痛みは無いのだろうが、痛々しさがその古傷からも伝わってくる。
思わず目線を逸らしてしまうけれど、見てしまう。

「片目は、もう開かないの・・・?」
「開かないことなんざ無い。ただ開けたくないだけだ」
「何故?」
「・・・あんた一々追求するのはやめて欲しいんだけどな?」
「ごめんなさい・・・」

本当に詫びれるシャルロットが顔を俯かせれば男はそれ以上何も言ったりはしなかった。
ただ、未だ差し出したままのそれを男がじっと眺めている。
レースのついたその白い手拭には花柄がちりばめられ、絹素材なのだろうから使い心地はいいのだろう。
明日の暮らしすら保障されないイージェスト<奈落者>にとって、もらえるのならば喉から手が出そうなほど、欲しがるはずだ。
しかし、男は決してその手を伸ばさなかった。

「・・・いつまでそうやっているつもりだ?チャーミル・プリンセス<麗しの姫さん>。俺達は奪うのが主義でね。貰う行為は屈辱以外の何にでもないんだ」
「―――なら奪ってしまえばよろしいのよ。私は差し出しているだけ。あなたはそれを奪ったという事にすれば何にも可笑しい事はないはずよ?」

シャルロットの奇妙な発言に、男は噴出すように笑った。

「可笑しな姫さんだ。俺達はお前の全てを頂こうとしたイージェスト<奈落者>だぜ?そんな事をしていいのかい?」
「―――何故?話せばこうやって穏やかになれるの。やっぱり愛って大事よね。愛と愛があれば戦う事なんてしなくていいのよ。共に手を取り合って助け合えば世界はもっと美しくなると思うの」

嬉しそうにそう言ってしまうシャルロットに、男は呆れたように言った。

「・・・あんたの頭は随分とお祭り騒ぎしているようだな?あんなドラゴンの元にいて、恐怖のあまり頭でもおかしくなったか?そんな妄想を俺に話されても何がなんだかさっぱりだ。世界が綺麗だと話すあんたは幸せだからそう言えるんだ」
「幸せだから・・・?あなたは、やはり・・・幸せでは・・・?」

シャルロットは手を伸ばしたまま、少し不安そうに首を傾げた。

「―――そんなもの。感じやしないさ。こうやって暮らさなきゃ生きていけねぇ生活を長くやっていても、慣れなんざ来やしねぇ。それどころか何故こうなっちまったのかって、その原因を辿る度―――沸き起こる怒りだけで俺は生きてきたようなもんだ。あんたみたいにモノに囲まれ、金に囲まれ、何不自由なく暮らしている姫さんには分らない苦労さ・・・まぁ、確かに。そうだな、唯一幸せを感じるのは女を抱いた時ぐらいだな」

からかいを含めて、男はシャルロットを見つめる目を細めた。
意味を知らないシャルロットはただ不思議そうな表情をしたまま、口をへの字に曲げている。

「レッドが、言っていたわ。『世界は汚い』と。『世界は醜い』だなんて、そんな事は無いと思うのに・・・」
「―――ああ。その通りさ。世界は汚れている。醜くて歪んだ世界だな。・・・レッドって言う奴の言葉は真実さ」

不思議と言葉が出るといった様子で、男は穏やかな口調で答えてくれる。
しかしシャルロットはその答えが気に入らず、少し柳眉を寄せてぐれる様に唇を尖らせた。

「・・・世界は美しいわ。綺麗なモノで溢れているのに・・・」
「それは幸福者の戯言だぜ?姫さん。ずっと箱の中に入っていたから、汚いものを見せられずに育ったんだな。・・・ったく。申し訳ねぇ話だがな、俺はやっぱり王族なんぞ大っ嫌いだ。むしろあんたが不憫でならねぇよ」
「不憫?」
「ああ、気にするな。―――ったく、むかつく話だぜ・・・」

片目に一瞬表れた、地の底から何かを恨むような眼差しは、嫌でもレッドと重ねてしまう。
軽く舌打ちをして、男は続けた。

「騙し騙され、隠し隠され、殺し殺され、生かし生かされこの世は成り立ってるんだ。弱肉強食だな。そんな世界をあんたは美しいと言うなんざぁどういう神経してんだか。―――まぁ、あんたに言っても仕方がないか。・・・現に分りやすく例えられる奴が傍にいただろう?」

シャルロットは分らずといった様子で首を傾げた。
それに呆けたのはやはり男だ。

「―――わかんねぇのか?あのドラゴンだよ。醜くて恐ろしくて凶悪な化け物じゃねぇか。あんなおっかないもんと一緒にいてよく平然としていたな」
「あら?世界にはレッドのようなドラゴンがたくさんいるのではないの?」
「―――世間知らずだし常識知らずとはまさにこの事か・・・」

ふっと、男の目が遠のく。

「・・・ある意味幸せの御めでたい姫さんだ。こういう奴がいると思うと人生が馬鹿馬鹿しく感じるってもんだぜ・・・」
「あら?私何か可笑しい事を言ったかしら?」

男はもうその話題に関して何も言わない。
言っても言っただけ無駄だと悟ったのだろう。
ただ―――男は眩しそうな眼差しをシャルロットに向けて、微笑んだ。

「―――あんたは身も心も美しいな。一緒にいるだけでこっちまで馬鹿になっちまいそうだぜ。これだけ綺麗だと嫉妬しちまうもんだ。汚れた自分を認めたくなくなっちまうからな・・・」

レッドと似たような発言をする男に、シャルロットはレッドは大丈夫かと、どうしようもない不安に駆られた。
追いかけた男を―――殺してしまってないだろうか?
しかしシャルロットは信じた。

―――レッドはきっと自分の言葉を聞いていたのだから、殺さないでいてくれる・・・と

話せば分かり合える。心があるのだから、分かり合えないはずがないとシャルロットは意思を変えない。
ふいに、シャルロットは気になる事を思いついて、男に尋ねた。

「―――ねぇ?イージェスト<奈落者>って一体何?あなたの、名前なの?」

脱力したように男が目元を手で覆うと、呆れたように首を左右に振ってため息をついた。
まるで馬鹿にするように、本当に疲れた様子を見せる。

「―――かっ・・・。そんな事も知らないとは。どれだけ狭い箱に詰められていたんだよ・・・」
「イージェスト<奈落者>って一体何をするの?」

尚も尋ねてくるシャルロットに、男は自棄になったような口調で答えた。

「いいかっ?イージェスト<奈落者>って言うのは相手から金品を奪ったり、相手を騙したりする悪い奴らの事だっ!生きるためなら人も殺すし、人質を取って金を要求する事もするっ!それがイージェスト<奈落者>だっ!・・・・・・・まったく・・・・この年になってこんな常識を王女に教える羽目になるとは・・・。人生奇怪だらけだぜ・・・」

深々と、男はため息をもう一度吐き出す。
しかしシャルロットはそれに気にした様子を見せぬまま、少し不満そうに目を細めた。

「―――人から奪うの?人を・・・騙すの?」
「ああ。そうだ。だが悪いのは奪われる方で、騙される方が悪いんだ」

「―――間違っているわ」

「はっ?」

男は嫌な予感から瞼を半分閉じた。
シャルロットは男ではない誰かに向かって叫んだ。

「間違っているわっ!奪われ騙されてしまった方々が悪くなる世界なんて、そんなの間違ってるわっ!手を取り合えば分かり合えるはずなのに。笑い合って、助け合って―――だってそれが出来るのは心があるからよ?愛があれば分かり合えるのに・・・。世界は汚くなんてないわ。世界は綺麗よ。穢れて見えるのは、それはあなたが幸せでないからよ―――もっと幸せにならなくちゃ。幸せを感じれば世界は綺麗に見えるわ。何を見ても綺麗に見えるのよ。―――ねぇ。そうは思わないかしら?」

男は少しばかり答えに戸惑うような素振りを見せた。
ただ、ただ遠くを見つめるように目を細め、まるで昔を懐かしむように目元を和ませる。
最初の頃とは比べものにならないぐらいの、穏やかな口調で男は告げた。

「―――あんたは本当に綺麗だ。綺麗過ぎて、本当に嫉妬しちまうよ。・・・けどな、言っている事は綺麗事でしか無い。昔の俺もそうだったが、綺麗事を並べても世界は、周りは・・・何一つ変わりはしない。・・・それを知った方がいい」

ぽつりと告げたその一言に、シャルロットは首を傾げた。

「昔?」

「―――あ?・・・ああ」
「昔は、私と同じだったの?」

男はどこか弱った様子で、苦々しく笑みを零した。

「姫さんほど世間知らずじゃなかったが、まぁ・・・愚かではあったな。―――そうだな。これから話すことは戯言として流してくれりゃいい。・・・。俺はな、近衛騎士として隣国の第二王子に仕えていたんだ。その王子に尽くそうと、一心不乱に一生懸命コツコツと馬鹿みたいに真面目に・・・それもあんたみたいに世界に夢と希望を抱いてがんばっていた頃があった。奴に仕えていれば、世界を変えられると―――本気でそう信じていた頃があった・・・」

シャルロットはその言葉に息を呑んだ。

―――隣国の第二王子

それはシャルロットが嫁ぐ先あり、本人の名称である。
ふいに、男が悪夢を思い出すかのように、僅かにその表情が強張った。
漆黒の闇に閉ざされた瞳には、静けさを携えながらも激昂をどうにか押さえ込んでいるようにも見える。

「―――だがな。その王子の顔はさすが王族。麗しの美青年だったが、性格が最悪だ。まさにその身に悪魔を宿していたと言ってもいい。手をつけようの無い忌み嫌われていた存在だった。それでも俺達は上手くやっていた。そしてそれはこれからもだと、確信していた。だが―――ある日、俺はその王子と口論になってな・・・」

男の表情に苦渋が染み込む。

「色々あったな・・・。本当に色々あって、俺は奴<王子>に全てのモノを―――・・・」

ふいに男の言葉が途切れる。
押さえきれない怒りを必死に押さえ込もうとしているのか、歯をかみ締めて。
けれどそれに耐え切れなかった、乾いた唇が圧力に負けて血を流す。それでも、押さえ切れない。そんな様子で。

「奪われたんだ」


ぎりっと、拳を握るその姿は震え、それは今にも飛び掛って誰かを殺してしまいそうな雰囲気だった。
まるで今までの人生を振り返るように、男の言葉は段々感情的になって低くなる。

「地位も名誉も居場所も国も。全てだ。その上、無実の罪を着せられ、俺は国を追放された。その時にこの傷は王子自らが、刃物でこの目を・・・光を奪った。―――それから俺の人生は闇のどん底さ。片目の視力を失って以来、得意だった剣が上手く振るえなくなってな。正真正銘、何もなくなっちまった・・・。ただ、残ったのは王子への憎しみ。復讐だけだ。憎んで憎んで―――だが、その王子を憎んでいたのは俺だけじゃないらしい。今にして思えば、その王子が病気で寝込んでいるのもきっと誰かの陰謀なんだろう。・・・認めたくは無いがあの切れ者を仕留めるなんざ、いい腕をしている。是非ともそいつにあって、その策略とやらをお尋ねしたいもんだぜ・・・」

男は憎らしげに鼻で笑った。しかし、まだその怒りが収まる事は無く。むしろ自分の手でやらねば意味がないとでも言いそうな様子だった。
シャルロットは少しばかり不安に駆られ、顔を曇らせる。
男は顔を強張らせ、今にも泣きそうなシャルロットを見るなり、苦笑いを浮べた。

「―――なんて顔してんだ。しかし、まぁこんな話を聞かせられれば誰だってそうなるか。どうだい?こんな話を聞いて、それでもあんたは世界が美しいと言えるのか?」
「・・・美しいもの・・・」

泣きそうに顔を俯かせ、しかし意見は決して変えないと唇を閉ざす。
そんなシャルロットの強情な姿を見て、男は何時に無く穏やかに苦笑を零した。

「困らせるつもりだった訳じゃねぇ。苛めるつもりだった訳でもねぇ。ただな世界はこんなもんだと知ってもらわねぇとあんたが可哀想だ」

シャルロットは尋ねた。

「・・・あなたの名前は?」
「アーロン。・・・昔はもっと長い名前だったが、地位も名誉も奪われただけじゃなく勘当されちまったからな。こんだけしか残っちゃいねぇ」
「あら?名前は短い方がいいわ。長いと呼ぶのも疲れてしまうものよ?」

面白そうにシャルロットが言えば、男―――アーロンはくつくつと陽気に笑った。
そして真っ直ぐとした、それも濁りがなくなったその目でアーロンはシャルロットを眩しそうに見上げる。

「穢れ無き王女様―――あなたのお名前は?」
「シャルロット。・・・もっと私も名前が長いのだけれど、愛称で呼んでくれた方が近い存在のようで嬉しいわ」
「―――年はいくつでいらっしゃいますか?」
「17よ」
「―――それは適頃で良かった。俺は数えて25だ」
「あら、随分と若かったのね。その年で近衛騎士になれたなんて・・・あなたは優秀だったのね?」
「昔の話だ―――もう忘れてくれ」

照れるようにアーロンはそっぽを向き、そして未だに差し出されているハンカチを見て意地悪い笑みを浮べた。

「・・・売ったら金になりそうだな」
「―――私が持っているより、あなたが持っていた方が役に立つわ」

シャルロットは花を湛えたように微笑む。
その髪は切られ、女性としての価値がなくなったに等しい。
それでもシャルロットの美しさはそんな些細な障害さえ弾き飛ばしてしまうほど美しかった。
男は無言のままそのハンカチを握る―――と見せかけてシャルロットの腕を取ると一気に男は自分の胸元へ引き寄せた。

「きゃっ!」

目を白黒にさせるシャルロットの華奢な体は、容易にアーロンの腕の中に収まる。
近いアーロンの顔は目と鼻の先で、穏やかな眼差しをシャルロットに見せたままアーロンは囁いた。


「―――盗賊は奪うのが主義なんだ」


「・・・っ!」

唇を奪われ、シャルロットは理解していない様子に目を見開く。
しかしその暖かな感触は一瞬で離れてしまった。
何故か、男が驚いたような形相で上を見上げている。
ばさりと、大きく翼が羽ばたく音がする。
その場の空気ががらりと代わり、不穏な風が流れていた。
木の枝や葉っぱが波紋のように広がっては散っていく。

「ほんと世の中そう上手くいかねぇんだな・・・」

アーロンが忌々しそうに空を見上げてるのに釣られ、シャルロットもゆっくりと振り返った。

「レッド・・・?」

その表情は強張っていて、茫然としているようだった。
赤い目が極限まで見開き、鋭い瞳孔は細かに揺れている。

「シャ・・・―――ル・・・・?」

レッドの掠れた声が、弱々しくシャルロットの名を呼んだ。



**********



―――見つけた・・・っ!

レッドは怒りでそのまま男に飛び掛ろうと、空高く飛んでいた。
翼が羽ばたくような音を掻き消しながらも、近くにいるシャルロットに目を向けて無事だと確認する。

―――今はまだ手を出していないようだが、それでも付け上がらせる訳にはいかない

レッドはそのまま急降下したその刹那―――

シャルロットの体が男に引っ張られ、同時にその体が重なり合った。

(・・・っ!?)

その動揺からレッドはバランスを崩し、急降下に失敗して見つかってしまうというドジを踏んでしまった。

しかしここまで接近したからこそ分ったのは―――

重なっているのは体だけではなかった。
その事実に、レッドは殴られたような衝撃を受け、怒りすらも吹っ飛んでしまう。
シャルロットの不思議そうな顔がこちらを向いた。
ただ、何がなんだか分らないといった様子に、思わずその名を口にする。

「シャ・・・―――ル・・・・?」

自分でも情けないと思うぐらいの、かすれた声が出た。
しかし男を見ると同時に、理由なんて知らない衝動に駆られ、レッドは激しい劣等感に叫んだ。

「貴様・・・っ!」

これは怒りか?それとも別の何かなのだろうか?
どうしようもなく胸が痛かった。
人と獣―――その隔離された見えない部分を見たような気がして、レッドはその考えを振り払うように爪を振り上げた。


**********


「・・・っ!」

片目に傷を負った男―――アーロンは驚愕に目を見開く。
アーロンは咄嗟にシャルロットを荒らしく突き飛ばした。

「きゃっ!」

短い悲鳴を上げて、シャルロットが後ろに尻餅を付くと同時にレッドの鋭い爪がアーロンが寄りかかっていた木に向かって降り注いだ。

アーロンは瞬時にしゃがみ込んだ。―――ほとんど反射的だった。

同時に、何かが食い込むような鈍い音が響く。アーロンの頭上辺り―――その木がめきめきと音を立てながら二つに割れて、地面に倒れる。

もしもアーロンが咄嗟に避けなければ、大惨事だった。

命の危機に、アーロンが何かをするよりも早くその首をレッドが掴んだ。

「ぐぁあああ・・・っ!」

その異常な体内温度にアーロンは悲鳴を上げる。

「苦しめっ!お前は焼き殺すっ!焼き殺して―――そしてその遺体すらも残らぬように灰へと還してやるっ!」
「レッドっ!止めてっ!殺さないでっ!」

シャルロットが、熱さに構わずレッドの尻尾を掴んだ。

「レッドォオっ!お願いよ!」
「うるさいっ!お前の指図に従う必要なんてないんだっ!黙っていろ!」
「きゃぁっ!」

レッドの尻尾が荒々しく振り回され、シャルロットの体を地面に飛ばしてしまう。
地面に擦れながらシャルロットの体は倒れ、アーロンが思わず飛び出そうとする。

「シャルロ・・・ッ」

だが、それを許さないレッドが乱暴に制した。

「シャルに近づくなぁあっ!」

その形相は恐ろしく、アーロンは痛みすらも忘れてその表情を明確に読み取る。

―――動揺している

シャルロットを荒々しく突き飛ばしたのも、これ以上の火傷を負わせないようにと、不器用な配慮をしたからなのだろう。
しかしその荒行に過去に仕えていた王子の顔が重なり、同じ性格であるとアーロンは憎しみに笑みを浮べて胸を反らすように言った。

「―――はっ。凶悪な、ドラゴンも・・・あの王女様に・・・惚れちまった・・・訳か?・・・傑作、だな?・・・お前みたいな、奴に―――あの、王女に、何が出来る・・・ってんだ・・・っ!傷つける、事しか―――出きねぇ・・・じゃねぇか・・・っ!」

「黙れっ!」

アーロンのの勝ち誇った笑みを浮かべようにも、痛みで上手く笑えないようだ。
それでも少なからず、レッドの動揺が大きくなった事にアーロンは満足感を得ていた。

「レッドぉっ!嫌よっ!殺さないでっ!ねぇっ!?さっき追いかけていった人はどうなってしまったの・・・っ?」

同じく顔を真っ青にして動揺するシャルロットに声に、レッドは冷酷な印象を孕んでシャルロットに言った。

「―――殺した。お前の髪を奪った奴は殺してやったさ」

その瞬間―――シャルロットが息を呑み、レッドは白い歯を見せるぐらいまでに、荒涼な笑みを深くした。
シャルロットが俯く。
少し長めの前髪がその表情を隠してしまった。―――ただ分ったのは、何かを堪えるように、切れそうなほど唇をかみ締めていたことぐらいだ。
アーロンの悲鳴と、肉が焼けるような音が響く中、シャルロットの小さな声が響く。



「―――酷いわ」



その一言に、レッドから笑みが消え、呼吸を飲み込む気配が確かにあった。


**********


「・・・酷いわ・・・っ!」


シャルロットの、強気に歪んだ青の両目が大きく潤み、やがてはその目じりから涙が零れた。
後ろを振り向いていたレッドは、それこそ呼吸を忘れるほど驚いたように目を見開く。

―――今までどれだけ痛めつけても泣かなかったシャルロットが、泣いたのだ

それは自分のためではない。赤の他人のために、泣いている。
それが信じられず、レッドは自分がやった事が間違いだったのかと自問した。
しかしここでも、強情にして高すぎるレッドのプライドが本音を隠してしまう。
その情けないような表情を隠そうと努めて笑みを浮かべようとするが、その顔はいささか強張っていた。

「―――酷い?ああ。そうかもな。これが罰だ。交渉を破棄した者に対する罰だっ!こいつもその罰を受ける―――」

レッドの語尾は切れてしまう。
突然と走ってきたシャルロットが、アーロンを掴むレッドの手に触れたのだ。
じゅうと、焼ける音がレッドの耳に嫌な音として残る。

「・・・っ」
「馬鹿!!何触ってんだ!!火傷したいのか!!」

思わず体温を下げ、ここでアーロンはようやく熱さを感じなくなったように、少し苦渋の表情が和らいだ。

「シャルっ!その手を離せっ!」
「嫌よっ!殺すと言うなら私を殺しなさいっ!ここは私の国よっ!私の指示に従って!」
「何故俺がお前のような人形の言う事を聞かなきゃ・・・っ!」
「ならお願い・・・お願い・・・お願い・・・!!」

涙をぽろぽろと零して、剣呑な目つきでシャルロットは尚もレッドに縋った。

「レッドっ!この人を許してっ!あなたにも心があるでしょう?同情の心があるでしょう?慈愛の心があるでしょう?―――優しさが、あるでしょう?」

痛々しいその表情。

明らかに傷ついている―――

望んでいたはずの傷ついたその表情はレッドに喜びなどを与えず、ただ大きな痛みとして残ってしまった。
しかし皮肉にも、レッドの口調はシャルロットを傷つける言葉しか並べない。

「―――はっ?何を泣いているんだ・・・っ!?何を傷ついている?他人事だろ?お前が泣く必要なんて―――」
「レッドっ!」

強いその口調に、レッドは無言となった。
アーロンの方を憎らしげに見つめ、そしてシャルロットの歪んだ顔を見る。

歪んだその表情。

傷ついたその顔も―――美しい。

それなのに、何故こんなにも痛いのだろう。
レッドが諦めたようにその腕の力を緩めた。
同時に男がどさりとその場に尻餅をつき、激しくむせ返るのをシャルロットがその背を撫でる。
その光景が気に喰わず、レッドはシャルロットの体を尻尾で包んで、引きずるように自分の方へ引き寄せた。

「レッド・・・っ!」

非難するようなその声が、腹立たしい。
しかしそれに構わずレッドは言った。

「―――王に伝えろ。『世界で一番美しいモノ』を持ってこなければこの女の命はないとな・・・っ!お前はそのために生かしてやるっ!それをやらなかったら、この女がどうなるか分っているのか?」

アーロンは噎せ返りながらも、のろのろと立ちあがった。
その目つきは決して譲らない眼力を含み、やがてはそれを敵意を込めた笑みへと変わった。

「―――その女性<人>は・・・お前にとってはただの人質なんだよな・・・?」

「ああ。そうだ」

プライドが邪魔をし、レッドはさも同然のように答えてしまう。
それを嬉しそうに眺めながら、アーロンは踵を返した。
よろよろと、まるで頼りない足取りで国へと帰る道を歩き出し、そして一度だけ振り返るとシャルロットに穏やかな表情を向けて言う。

「―――シャルロット様・・・っ!俺が、必ず救ってやる・・・っ!」

その言葉は、レッドにとって衝撃以外の何者でもなかった。

分らせられたのだ―――

綺麗なシャルロットと、穢れたドラゴンでは、到底・・・

だから、レッドは自分を奮い立たせるようにシャルロットに言った。

「―――だとよ。精々王子様の帰還を待つことだな」

しかしシャルロットの表情は凛とした、まるで最初の頃と違う態度をレッドに見せた。
決して純粋を閉じ込めた瞳が変わったわけではない。
ただ―――穏やかな眼差しも、笑顔も見せなくなってしまったのだ。
アーロンの背中が見えなくなるまで心配そうに見送り、それがレッドの心に新たな怒りを生み出してしまう。
爆発したように、レッドは叫んだ。

「何故だっ!お前の髪を奪ったんだぞっ!?お前を襲おうとしたんだぞっ!?利用としたあいつらを何故許そうとするっ!?馬鹿かっ?お前は大馬鹿かっ!?」

長い髪は女性にとっては自分の美を象徴するために絶対の必要要素だ。
それを切られた上に、国の王女が襲われたとなればそれは『穢れた存在』として扱われてしまう。

全てを承知の上、シャルロットはあの男を許したのだ。


それがレッドには許せない。



断じて許したくないのだ。



レッドが声を荒げるのに対し、シャルロットは少し剣呑な表情で答える。

「髪はいくらだって生えてくるわ。私を襲ったのも、生活に困って致し方なくやったのよ?深刻な事情があったはずなの。レッドはあの人達の細い腕を見たのかしら?あんなにやつれて、怪我を治療する余裕だってなかったに違いないわ・・・っ!」

最後は不憫そうにシャルロットは語尾を小さくする。
もしもそれを連中が聞いたらどうなるだろうか?
馬鹿にしたように笑うか、逆に馬鹿にされたと羞恥に顔を歪ませるかのどちらかだ。
それが普通の反応であり、シャルロットが言っている事はあまりにも綺麗事過ぎる。
レッドは気に入らない想いに、目力を強めた。

「他人の心配じゃなくて自分の心配をしたらどうだっ!?お前が汚されれば、結婚も出来なくなるんだぞっ!?玉の輿にもなれず、ましてや髪を切られたんだっ!女性だったら自殺するぐらいショックな事なんだろう?なのに何でお前はそんなお人よしなんだっ!馬鹿女!あそこで殺さなかったら、あの男は付け上がるぞっ!?殺すべきだったんだ!お前のためにも―――」

「私のため?それは違うわ。私のために人が死ぬ必要なんてないのよ。殺す必要なんて・・・っ!だけど・・・それを殺すなんて・・・っ!レッド、それは酷いわ。命は一つしかないのよ?その命を奪うなんて、人から奪うなんてそれは酷いわっ!」

シャルロットは怒っていた。
てっきり感謝の一つもされるかと思っていれば、それとは逆にシャルロットは怒るのだ。

―――何故殺したのかと・・・

レッドはもう憤りを通り越した呆れの感情に体を細かに震わせる。
髪が短くなっても、シャルロット本来の輝きは失われていない。

気に喰わなかった。
助けたはずなのに。救ってやったはずなのに。

怒りに紛れて、心のどこかが期待を裏切られたようにずきりと痛んだ。

―――気に入らない

「何故俺は攻められなくちゃならないっ!俺はお前の命の恩人のはずだろっ!?何故そんな顔をするんだ!俺はお前を救ってやったんだっ!感謝されるべきだろっ!?違うかっ!?」
「感謝なんて出来ないっ!私は殺さないでと言ったわ。レッド、殺してなんて頼んでないものっ!彼らにはきっと家族がいるはずよ?その家族がどうなってしまうか考えなかったの?話し合えば分かり合えたはずよ?だって分かり合えるはずでしょ?心があるのだから。レッドだって心があるでしょ?なら、何故分かり合おうとしないの?」

怒りに、レッドの目元に皺が増えた。

「お前のその戯言なんぞもう真っ平だ!もううんざりだっ!お前の言っている事は綺麗だが、正しくなんかないんだっ!そもそも助けた俺が馬鹿だったっ!こんな奴のために・・・っ!俺はお前のために―――」

ここまで言って、レッドは不都合な事を無意識のうちに言ってしまった事に気づく。
自失呆然と言った様子で、レッドの視線はシャルロットに下りる。


―――俺はお前のために・・・?


確かにそう言ったのだ。
しかし怒っているシャルロットは首を左右に振ってそれを否定する。

「―――私のため?なら・・・なら、何で殺してしまったのっ?私はちっとも嬉しくなんてないわ。お礼だって言いたくないわっ!レッド、酷いっ!私レッドに人を殺してなんて欲しくなかった・・・っ!殺された人があまりにもかわいそうだわ・・・っ!痛かったはずよ?傷ついたはずよ?」

シャルロットは嘆く。
涙を見せることはしなくても、ただ命を奪うかのごとく利用しようとした非情な彼らに対して哀れみの感情を宿しているのだ。

レッドは傷ついた。

助けた事に感謝されると、喜んでくれると・・・思っていたのかもしれない。
レッドはただ感情が突っ走るだけで、表現できない言葉が脳裏を駆け巡った。
そして、俯き加減だったシャルロットがついに叫ぶようにこう言ってしまう。


「レッドなんて大嫌いよ!」


その言葉を言われた瞬間―――レッドの中で何かが抉り取られたような衝動に駆られ、その表情から怒りの感情が抜け落ちる。
まるで傷ついたような顔をして、しかしシャルロットはそれに気づかない。


―――レッドなんて大嫌いよっ!


ふつふつと沸き起こる感情に、レッドは腹が煮え繰り返る衝動が沸き起こるのを感じ、一瞬にしてその表情が再び怒りで燃え上がった。


「・・・ふざけるな・・・っ!」


レッドは睨んでくるシャルロットから視線を逸らすように、踵を返す。

―――ふざけるな。ふざけるなふざけるなっ!


「ふざけるなぁあああああっ!」


空に向かって、レッドは口を開いて叫んだ。
地響きを感じるその怒号の叫びは森全体を揺り動かす。
目の前が僅かに歪み、葉が舞い散り、そして鳥が一斉に飛び立った。
ここでようやくシャルロットの表情に罪悪感のようなものが生まれ、しかしシャルロットが何かを言うよりも早く、荒々しくその尾びれでシャルロットの体を地面に叩きつけた。

「きゃぁ!」

どうにも出来ない怒りから、身を震わせる如く尚も怒涛の声音で叫んだ。

「お前など・・・お前などあいつらに汚されてしまえば良かったんだ!お前など死んでしまえばいいっ!騙されて傷つけられて―――最後には絶望を味わって死んでしまえば良かったんだっ!」
「レッド・・・?」
「俺だってなぁ、俺だってお前みたいなのは大嫌いなんだよっ・・・!その無神経な所が一番・・・一番うざったいんだよ!!―――嫌いだ・・・お前なんか大嫌いだ!!」
「レッド・・・っ!ごめんなさい。あなたは私のために―――」
「自惚れするなっ!俺はお前を利用しているだけだっ!利用して利用して捨ててやるっ!精々絶望すればいいっ!誘拐など頼んだ事を後悔させてやるっ!死んでしまった方がマシだと思うぐらい・・・っ!お前のその間抜けな考えが間違っていたと思わせてやる!」

レッドの尾びれが再び、シャルロットを攻めるようにその首に絡んだ。
じゅうと、肉が焼けるような音にシャルロットのくぐもるような悲鳴を聞く。

ずきりと、胸が痛んだ。

何故痛いのか分らない。ただもっと傷つけて、自分もまた傷つきたいと願ってしまう。
傷つけたくないと思ったり、突然と傷つけたいと願ったりする自分が分らなくなる。

(俺は・・・っ!嫌いだっ!この女が大嫌いだ!)

「ねぇ・・・っ!レッドは何故自分を、傷つけようと・・・するの?」

シャルロットの苦しそうな発言にレッドは眉の無い眉間に皺を寄せた。
締め付ける圧迫が原因なのか、それとも熱いその皮膚が原因なのか―――シャルロットの声は悲鳴に近い。
それでもその目に、恨みも憎しみも怒りも無いのだ。


それが・・・それが『怖い』―――


レッドはどうしようもない恐怖に襲われ、顔を背ける。

「傷ついているのはお前だろっ!?俺は一切傷ついてなど―――」
「何故、私に嫌って欲しいと、願うの?嫌われて、自分を―――傷つけようとしてる、わ?レッド・・・っ?何故?・・・私はあなたが―――」

その言葉を遮るように、レッドは感情に怯えを見せた叫びで怒鳴りつけた。

「うるさいっ!何もかも分りきったような口を叩くなっ!この偽善者!お前の考えは綺麗過ぎる妄想だっ!」

レッドは手のように動く尾びれを緩め、シャルロットを地面に落とす。
どさりと、シャルロットの体が力なく横たわり、それを見て傷つく自分に気づく。


―――なんで・・・こんな・・・っ!


望んでいない結末に、レッドは癒えぬ心の痛みに顔を歪めた。
シャルロットと、あの男が唇を重ねていた光景が嫌でも脳裏に浮かび、それを振り払うように目をきつく搾った。
全ては望んでしまったからだ。
シャルロットに感謝されるかもしれないと・・・少なからずそう望んだ結末がこの有様。
綺麗なモノは嫌いだ。

だけどそれ以上に―――

レッドは内心で刃物を振り回し、その心を切り刻むように何度も呟く。
嫌いだ。傷つける自分が嫌いだ。
嫌いだ。傷つける事しか出来ない自分が嫌いだ。

嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ―――


「ちくしょぉおおおおおおっ!」


レッドはその場から逃げるように翼を広げた。

「レッド・・・っ!」

背後から聞くその声に、恐れを覚える。

睨むようなシャルロットの目つき。
あんな目をされたのは出会ってから初めてだ。

いつも穏やかに微笑を湛えてシャルロットは自分を見てくれたのに。
最初から―――出会った時から受け入れてくれていたのに。

いいや、自分を戒めろ。そうでなければ傷ついてしまう。
今のように、こうやって傷ついてしまう。

怖い―――

傷つきたくなど無い。


嫌だ。


いつか嫌われるぐらいなら・・・―――
離れていってしまうぐらいなら、最初から―――
希望を持たせるな。世界を美しいと思わせないで欲しい。

初めてこの姿になって笑顔をくれた少女。
この醜い姿を恐怖の対象とせず、ただ普通に接してくれる優しい女性。
だけど彼女の姿は自分とはかけ離れ、誰をも魅了する美しい人間だ。


そして自分は誰だ?


人に嫌われ、世界に嫌われ、今度は最後の希望を断ち切るように彼女にも嫌われてしまうのだろうか?
誰がこの醜い姿を受け入れる?
所詮自分は世界から除外された醜い化け物だ。
誰かに好かれるはずが無い

ならば、嫌われる前に嫌ってしまえ―――

だから世界は汚いと罵り、全てを否定してきた。
それなのに、嫌って欲しいからこうやって傷つけているのに、シャルロットはちっともその態度を変えない。
レッドは戸惑っていた。

―――いつか、嫌われてしまう日が来るのかもしれない・・・と

それでも少女の笑顔が頭にちらつく。


もしもその綺麗な顔が憎悪に歪む日が来たら・・・その日こそレッドはどうなってしまうのだろうか?


「レッド・・・っ!」


レッドは攻めもしないシャルロットの声が遠ざかるのを聞く。
それを聞いて聞かぬ振りをしたまま、振り返らぬ事もせず、その場を後にした。






推敲更新日

2008年10月05日

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