―――綺麗
世界は綺麗だった。
あの空も、その太陽も。野に咲く花も、生き生きとしたその笑顔も―――
綺麗・・・綺麗・・・綺麗。
―――でも
あの紅蓮に輝く二つの宝石。
ルビーの名に相応しい―――いや、それ以上の輝きが忘れられない。
綺麗―――あの赤い目。
その目が一心に私を見てくれた。
ねぇレッド―――
何故あなたの目はそんなにも真っ直ぐで透き通っているの?
綺麗・・・あなたの目は綺麗だわ。
―――でも、何故なのかしら・・・?
綺麗なモノはこんなにも近くにあるのに・・・
レッド―――?
あなたは何故それに気づかないの?
**********
―――これで・・・いいんだ
レッドはシャルロットを無造作にもその肩に抱え、早々と下山するイージェスト<奈落者>達の背を見送った。
力ない両手がぶら下がり、太陽の光を弾く長い髪が左右に揺れるのを眺めながら、勝ち誇ったような笑みを浮べてくる男達に敵意を向ける。
特に、レッドに恐れの色も見せなかったあのイージェスト<奈落者>―――シャルロットを背負うその男には、特に―――
―――が、それも直ぐに下りの岩石によって姿が隠れてしまう。
真後ろに置かれた銀箱を見つめ、しかしそれを開ける気にもなれずレッドはただシャルロットの帰還する道のりを眺め続けた。
今日は随分と空を流れる雲が穏やかだ。
レッドは森を抜けた米粒のような国を、『綺麗だ』と言ったシャルロットの笑顔を思い出す。
―――あんな国、ただ緑が多いだけだろ。何が綺麗なんだか・・・
水が滴る音を聞き取りながら、春の訪れを思わせるようにツララが溶けているのを知る。
―――氷が綺麗なんて子供のいう事だ。ただ冷たいだけじゃないか
花も水も山も森もこの自分の目さえも綺麗だと目を輝かせていたシャルロットが未だに気に喰わない気持ちにレッドは息を吸い込んだ。
「はっ!清々したもんだっ!あんな女・・・一緒にいるだけで疲れるもんなっ!」
独り言にしては大きな声で、レッドは胸を反らす。
むろん誰が答えるでもなく、むなしさだけが残った。
犬のようにお座りをして、未だ取れない蟠りにレッドは眉を寄せる。
両腕を人で言うなれば腰に当てていたレッドは、力を失ったように仰け反っていた腰を丸くした。
不機嫌そうな両目。しかし、その垂れ下がった耳と尻尾を見れば彼の心境はお分かりいただける事だろう。
―――いなくなって・・・すっきりしたんだ
自分は『世界で一番美しい宝石』を手にし、シャルロットも幸せになるだろう。
この澱んだ世界の中で、『世界は美しい』と思ったままでシャルロットは本来いるべき場所へ帰っただけの話だ。
―――ただ・・・それだけ
レッドは睫毛の無い額の皺を寄せ、瞼を僅かに下ろす。
欲しい物は手に入った。
気に入らないあの女も思うがままに痛めつけて、気分も少なからず晴れただろうに。
(ああ、後味が悪い。なんなんだよ、あの女・・・。最後まで怒りも泣きもしなかった・・・)
どうしようもなく傷つけたくなる。
だから傷つけた。
例え少女がまた自分の身に寄り添おうと、ただ傷つける事しかしないし、出来ない。
綺麗なモノに汚れが近寄れば、容易く痛むし、傷つくのだ。
―――所詮自分は『汚れモノ』か・・・
レッドは自嘲気味に笑みを浮かべ、望んだ物が入っているのであろう銀箱を見下ろす。
人間にとっては両手サイズであっても、レッドにとっては片手に乗るぐらいの大きさだ。
起用に爪先を使って、少し屈んだような体制のまま、レッドは手馴れた者でも舌を巻きそうな鍵を強引にこじ開けた。
「・・・」
レッドの顔が、人間で言えば曇るように落胆の色を見せる。
そこにあったのは翡翠の宝石だ。
『世界で一番美しい宝石<エメラルド>』―――
まさにその名に相応しい。
両手に抱えられそうなその宝石は確かに誰が見ても目を奪われる大きさであり、光に反射して光沢を放つその石は魅力的なのだろう。
残念ながら、レッドの目にそう大層なモノには映らなかった。
―――ただの石ころだ
氷柱の色が緑になったようにしか思えず、レッドは興味が失せたように緑の布に覆われた宝石から目を離す。
シャルロットは・・・今頃どの辺にいるのだろうか。
つい先ほど降り始めたばかりなのだから、きっとまだ森に入って幾分も経っていないだろう。
市民権を欲するあの男は兎も角、それ以外の男達の、恐怖に強張りながらも欲を隠しきれない企んだ顔が鮮明に蘇る。
何か危険な匂いを感じて、レッドは再びその宝石に目をやった。
結局は、『世界で一番美しい宝石』を見ても、何も起こらず終い。
しかし一体自分は何を望んでいるのだろうか―――?
『世界で一番美しいモノ』を見つけて・・・それから?
一体何がやりたいのかが分らず、レッドは苛立ったように舌打ちをした。
―――何が望みなんだ・・・っ!
腹が立つ。これだけ探しているのに見つからない。
腹が立つ。これだけ求めているのに見つからない。
レッドの尾びれが、苛立ちを抑えきれず、鞭の様に地面を叩いた。
岩が崩れるような音。レッドの尻尾の形に添って、生き物も育たない固い土が抉られる。
地響きにも似た衝撃に、銀箱は文字通り跳ね上がり、中の宝石が地面に叩きつけられ、転がって止まった。
ふいにレッドは後ろを振り向く。
そういえばと振り向いたその訳―――シャルロットが見ていた小さな花がこの辺りで一輪咲いていた事実を思い出したからだ。
しかし事は既に遅く、その花は見るも無残にへし折られ、咲いた白い花びらもむなしく地面に散っていた。
「・・・小さすぎて目にも入らないから、こうやって潰されるんだ・・・」
この不毛の地にようやく咲く事が出来ても、ほらこの通り。
まるで、全ての努力が無駄になる様を見せつけられたようだ。
その尾びれに押しつぶされた白い花を見て、レッドはシャルロットの顔を再び思い出した。
『この花綺麗ね』―――
綻んだ笑顔が幻想のように消えてなくなる。
妙に気に障る笑顔だ―――
「花なんてこうやって潰してしまえば綺麗でもなんでもないのにな・・・」
レッドはいつものように鼻を鳴らす。
シャルロットと出会う以前はいつもこうやって花を踏みつけたり、小鳥の卵壊したりと色々腹いせとしてやって来た。
―――やって来たが・・・
心が晴れないのは何故だろう。
「・・・何やってんだか・・・」
レッドは立ち上がった。
何をするでもなく、洞窟に入ろうとするよりも早く再び振り返る。
もう一度だけ、この荒地で強く根付いて成長した白い花の、潰されて汚れてしまったそれを見つめた。
―――綺麗なモノなんか容易く壊れてしまうものなんだな
レッドの目に留まることも無かった新緑の宝石。ふいに、地面に転がったそれに嫌な亀裂が走った。
**********
「へへへ・・・っ!いい餌が手に入ったもんだぜ」
シャルロットを肩に背負うのは、中でも体格の良い男だった。
まるで獲物を捕らえた蛇のように、長い舌で乾いた唇を潤しながら、嫌らしくその尻に触れる。
それはレッドと対等に渡り合い、シャルロットを受け取った、あのイージェスト<奈落者>ではなかった。
すっかり緊張から開放された彼らは、まるで己が強者であるかのように、口を達者にさせている。
絶えない笑い声は下劣で、聞くもの全てを不愉快にさせそうだった。
「一時はどうなるかと思いきや・・・くくくっ!あのドラゴンも傑作だよな!!疑うどころか確かめもせず、あの箱を受け取りやがった」
「しかしまぁ、『ばれちまったら』果たしてどうなるだろうなぁ・・・」
「少なくともあの国は無事じゃすまねぇだろう。―――その頃になりゃ、俺達は隣国辺りにとんずらしちまってる頃だしな。衰退しようと滅びようとも関係ありゃしねぇ」
「―――ちげぇよ」
ふいに、隣を歩く男が周りを気にしながら声を潜める。
しばらく水にも浸かっていなかった体臭と、茶色く濁った口から匂う激臭は思わずむせ返ってしまいそうだ。
「『旦那』だよ、旦那・・・。―――アイツをどうやって殺るんだよ・・・」
間が一瞬空いた。
それは考えるというよりも、気まずさに言葉を躊躇ったためだ。
あの赤いドラゴンに立ち向かえる、肝の据わったその男を『旦那』と彼らは呼んでいる。
この場に残ったイージェスト<奈落者>達が国を放浪していた時に、出会ったのが彼だった。
それ以来、腕の立つ彼に心底嫌がられながらも、従うふりをしていつもその後ろを歩いていた。
『旦那』といれば他のイージェスト<奈落者>に負ける事はないし、安定とまではいわないが十分生活しているだけの力が、その男にはある。
少し気高い面を取り除けば、『旦那』は良い防波堤となってくれるのだ。
しかし、今回でその『旦那』はもう用済みだという考えが、この場にいるイージェスト<奈落者>達にはあった。
なんせあの『旦那』以外、誰一人としてアベルジ王国の市民権など欲しいとは思っていないからだ。
目的が一致しなければ容易に切り捨てるだけの残忍さが、彼らにはあった。
それはあの男も同じことである。
「・・・ああ。『旦那』は今、魔物の群れの進行状態確認しに一っ走りしてるんだぁ。そんな声潜めなくともしばらく帰ってきやしねぇさ」
「そういう問題じゃなくてよ・・・」
「ふん―――アイツは市民権のために、この麗しの王女様を生きたまま連れて帰らなきゃならねぇ。その人質がこの手にあるとなればやる事は一つだろ」
近づけばこの王女を殺すと、そう脅してしまえば『奴』は下手に近づく事すら出来ない。
なんせこの王女を無事に連れて帰らなければ、市民権など手に入れられるはずもないからだ。
むしろそれを好機といわんばかりに逆襲を掛けてやれば、シナリオ<計画>は思い通りに行く。
「あとはあれだ。問題はそこじゃねぇ。この森一帯を取り囲んで、俺達の帰還を今か今かと待ち構えていやがる王女様の騎士様だろう」
「騎士様?」
前方をゆっくりと歩くイージェスト<奈落者>の反応に、シャルロットを抱える男は、分らねぇかなとため息を零した。
「―――俺達を散々馬鹿にしてくださった、『アゼフ』とか呼ばれてやがった将軍様の事だよ。あの頭の固さは、並みの金づちじゃ砕けねぇにちげぇねぇ」
「・・・ああ。あのじじいの事か」
王女救出には己こそが―――と、威勢良く。
熱烈にドラゴン退治の前線に名乗りを上げた初老の顔が、彼らの中では忌々しい記憶として残っていた。
イージェスト<奈落者>如きが、何故我らのプリンセス<王女>の救出という名誉を与えなければならないのか―――!!
そんな男がイージェスト<奈落者>に任務を委託する事を、それこそ形相を変えて大反対し、今回ようやく大人しくなったのも、国王直々の苦言があったからに違いない。
「難関はこっからだろよ。この森全土にアベルジ兵どもが円陣組んで待ち構えていやがるんだ。―――俺達が裏切らねぇようにな・・・」
「終いには言いがかりつけられて殺されちまうかも・・・」
一人の指摘にまるで他人事のようにイージェスト<奈落者>は鼻先で笑い飛ばし、それを肯定する。
これは自暴自棄ではなく、ただの推測だと。
「あの王様が何で可愛い可愛い娘の救出を俺達に任せたかって言えば、イージェスト<奈落者>だったからだ。王女がこんな森に失踪したなんざ悪評にしかなんねぇだろう?その事実を根本から消すためには・・・そう考えるのが普通だろう」
「ってことはよ、こっから出た時点で俺達・・・」
その先は言わずとも分る。
来る途中で何度もその話題が挙がり、しかしその先の予知を誰も口にはしなかった。
それを彼らは知っていながらこの勅令を受けた本当の理由。それは―――
「奴らにこの魔物の巣窟の全てなんざ分りゃしない。どこかしら見落としている箇所は相当あるだろうよ。そっからこの王女様も連れて、隣国の国境まで逃げちまえばあとはこっちのもんだ」
隣国になんの挨拶もなしに国境を超えるなど、宣戦布告をしているようなものである。
それに、上手くすれば自分達が戻らないのも、その魔物達にやられてしまったのではないかと考える事だって出来た。
蒸発するのに、それほど難しい事は無いのだ。
命を掛けた代償、それぐらい魅惑な結果がついてくるとすれば駆け引きはする。
「奴らが俺達の命を刈るか。それとも俺達が奴らを見下すか・・・。さぁ、どっちなんだろうなぁ。この王女様も、将来もしかすりゃ高級娼婦になって俺達を出迎える結末になるかもしれねぇぞ?」
それはなんとすばらしい事か。
今まで雲の上だった存在が、己の足元で這い蹲るのだと考えればこれほど心が踊ることは無い。
「王女だと言い張ろうと、裏に回せばそんな肩書きなんざ笑い飛ばされちまうだろうよ。誰が信じるかってんだ。こいつはきっと魅惑的な商売道具になるだろうよ」
「だけどよぉ。俺心配でなぁ。嫌な予感がしちまうんだ」
「なんでぃ。あの凶悪なドラゴンを見てちびっちまったのか?」
「うっせぇな!!」
図星としか言えない、前方を歩く男に他の3人は豪快に笑い飛ばす。
「―――にしてもドラゴンの目すら騙す偽物かぁ。良く出来てたもんなぁ」
「ったりめぇよ。俺の全財産と前借を叩いて作った代物だぜ?そう簡単にばれてたまるかってんだ」
「しかし残念だぁ、まさか『本物』の宝石が手の平に乗る大きさなんざぁ、夢も覚めちまう」
「無茶言うんじゃねぇよ。宝石の大きさにしちゃぁ上出来の類さ」
「あのドラゴンに渡した大きさぐらい、ありゃ良かったんだがなぁ・・・」
「これ以上の欲言っちまったら、その内墓穴掘るぞてめぇら―――ここは素直に喜ぼうぜ」
名残惜しげな男の欲を叱咤し、企みに成功したイージェスト<奈落者>の口元が不吉に歪んだ。
「『世界で一番美しい緑石<エメラルド>』―――あの国の宝はこの手にあるんだからよ」
その時だ。
小さく息を吐き出し、心地悪げな呻き声がイージェスト<奈落者>の背中から零れた。
イージェスト達は一瞬、会話を聞かれたのではないかと体を硬直させていたが、その様子が無いと分かると安堵のため息をつく。
「・・・ここ・・・は・・・?」
寝起きの眼差しで、肩に担がれて頭の血が上っていたシャルロットは心地悪そうに身じろいだ。
気絶していた様子は無く、ただ眠気に襲われていただけのようである。
悠長な娘だと、命の保障をされた者にイージェスト達は呆れかえった。
誘惑するような唇が苦しげに吐息を落とし、邪を知らない空ろな瞳と長い睫を見たのはその後ろを歩いていたイージェスト<奈落者>だ。
しばし禁欲状態だったその男は、さながら料理を目の前に空腹を耐えているように、唾を飲み込む。
「これはこれは麗しの王女様。王子様のキッスも無しでのお目覚めですかい?気が早い事で・・・」
あくまで紳士として扱おうとする表の顔に。しかし、相手をからかうような遊び心を感じて、イージェスト達は面白そうに笑い声を押し隠す。
身分相応の態度では無い。むしろ不自然すぎるその行為に、お前では不似合いだと、どの顔にも書いてあるようだった。
「救出された気分はいかがですかい?」
「・・・。あなた・・・っ!!」
シャルロットは手甲すらない、その露骨な手に驚き、顔を持ち上げた。
それはまさに皮と骨に近く、今まで身近で見てきた男達のような肉付きではなかったのだ。
「・・・あなた、きちんと食べているの?」
「―――はっ?」
「こんなに手首が細くって・・・まぁ・・・っ!!」
突然とそんな事を言うもんだから、男は目を点にして笑みが消えた。
何を言われているのかまったく分らない様子だ。
「・・・服も・・・今は春だけれど、その格好は寒いと思うわ。食事はいつもきちんと取っているの?今日は何か食べた?」
「いや・・・それは・・・」
イージェスト<奈落者>がそう簡単に食べ物にありつけるはずが無い。
全て強奪で補っている彼らは、時に人肉を狩り、それを食すまでに堕ちる事があるぐらいなのだ。
彼らにとって何でもない事でも、彼女からしてみればそれは信じられない事だった。
一日三食。食べれない日など今まで想像した事もなく、それが当たり前。
「だからそんなにやつれて・・・可愛そうに。城に行ったら何か食べ物をあげるわね。食べたい時に食べれない不幸なんて無いわ・・・!」
その場に沈黙が生じる―――が、直ぐにどっと沸き起こったような笑い声が森に響いた。
しきりに笑い、シャルロットの手を握っていた男すらも腹を抱えて笑い始める。
兜ごしのため、その表情はよく分らないが。
シャルロットは何故笑われているのかが分らず、ただ不思議そうな顔で首を傾げて見せた。
「―――王女様。それは何の冗談ですかい?」
「まぁ、私は冗談なんて言わないわ。本気よ?」
また笑い声が森に響き渡り、シャルロットは何が可笑しいのかとただ目を丸くするだけだ。
「・・・私、何か可笑しい事を言ったかしら?」
「ひひひ・・・っ!お、御めでたい女だぜっ!ひひひっ!」
「傑作だ・・・っ!この王女様が俺達<イージェスト>に物乞いしろだとよっ!」
「あなたたちは、わざわざ私を城まで連れて行ってくださるのよね?―――親切な方々だわ。だから何かお礼がしたいのよ」
シャルロットの冗談にでも付き合うつもりか―――はたまた本気で言っているのか。
彼女を背負う男は堪え切れない笑みを貼り付けたまま、試すような口ぶりで尋ねた。
「なんならその髪が欲しいねぇ。―――そこらの女の髪より、売れば数万ルーツにもなんだろうからな」
「いいわ。それであなた方の助けになるなら・・・」
沈黙が生じた。
この森の魔物達から逃げるように歩いていた男達は思わず立ち止まって、シャルロットを凝視してしまう。
売り言葉に買い言葉―――ただそう思っていたのだが、その王女を見てみれば本気なのだろう。
それで苦しい生活を抜け出せるのならば―――と、そんな事を言いたげな様子に、イージェスト達は互いに顔を見合わせた。
「・・・。いただいちまっていいと、あんた本気でそう言ってるのか・・・?」
髪の長さは女の賜物―――それを短く切る事は例え餓死してでも避けたいと思うほど屈辱なのだ。
貧しさに耐えかね、髪を売った物を待ち構えているのは世間の冷たい視線と否定―――
精神的に追い詰められ、髪が伸びるまで仕事の一つも与えられない彼女達の最後は、一言で語るにはあまりにも軽く。
それを、まるで食べ物を与えるような感覚で返事をされてしまえば、呼吸を忘れてしまうほど驚くのも理にかなっているだろう。
しかし、驚き以上の屈辱を―――男達は感じていた。
そこまで惨めに、己は彼女の目に映るのかと―――
イージェスト<奈落者>は侮蔑の眼差しや冷ややかな態度には慣れている。
むしろそれが彼らからしてみれば当たり前の世界なのだ。
けれどそれを哀れんだり、同情などをされるのは、むしろそちらの方が耐えられない。
兜の内側で、余裕を無くした男の顔には失ったはずのプライドを攻められるような苦い色が濃く出ていた。
「こう言っている事だし、俺達の明日のために王女様の髪をまず先に頂こうか・・・」
少し高さのある肩から落とされ、シャルロットは地と天がひっくり返った影響で目を回すばかり。
後ろによろけて倒れそうになるのを、前方を歩いていた男が受け止めた。
「ありがとう・・・」
細く笑み、振り返ってお礼を告げるシャルロットにイージェスト<奈落者>の表情は兜に隠れたまま。
やはりその表情はどこか硬いとは、彼女に分るはずもなかった。
「本当に切っちまうぞ・・・?それでもいいってのかい?王女様・・・」
「構わないわ」
「そうかい・・・。なら遠慮はいらねぇな」
シャルロットを抱えていた男は腰に付けていた短剣を手馴れた手つきで握り、シャルロットの腕を強引に引くと、まるで動物の毛を握るような荒々しい手つきでその髪を掴んだ。
根元が悲鳴をあげ、シャルロットは痛みに顔を顰める。
「痛・・・っ!!」
「おい。誰か逃げねぇように王女様の肩掴んどけ」
「だがよ・・・!」
「うるせぇ。王女様がお慈悲をかけてくださってんだ。素直に喜んでいただいちまえばいいんだよ!!」
同情を掛けられた怒りは重く、深く。
己が不幸者である事を強調されるのは何よりもの屈辱なのだ。
彼女の両腕を一人が束にし、抵抗できないようにすると、髪を切りやすくするために背中を見せるように方向を変える。
眼を丸くしているシャルロットに細く笑む奈落者<イージェスト>。
その苛立ちを込めた片手に握られた短剣が怪しく煌いた。
何の慈悲も無く、奈落者<イージェスト>は最も短いとされる肩までの長さを通り抜け、髪の付け根までに刃を食い込ませる。
厭らしく笑みを浮かべる奈落者<イージェスト>の顔に影が落ちた。
「後悔すんなよ、王女様」
その刹那。
引っ張り合った綱が断ち切られたように、シャルロットの体は前につんのめる形で倒れこんだ。
無論それを奈落者<イージェスト>が受け止めたのだが、それは彼女を気遣っての事ではなく、決して逃がしはしないという執念の元。
艶やかな蜂蜜色―――稀に無いその極上を何の迷いもなしに、シャルロットは不器用ながら確実に切り捨てられてしまった。
一部が枯葉のように舞って落ちるのを見て、もったいないと思ってしまうほどの価値があるそれを、である。
宝石が砕け散ったその様を目撃したように、他の奈落者<イージェスト>達は直立不動のままだ。
未だ両腕を束縛されたまま、シャルロットは保温してくれていた長年の相棒を失い、物足りなさそうに顔を顰めた。
「ちょっと後ろが寒いわ・・・。けれどこれから暖かくなるものね」
「ありがとよ。確かにいただいたぜ、王女様」
「まぁ・・・!!礼には及ばないわ!!王女として当然だもの!!」
皮肉な感謝に気づかないまま、ただその礼の言葉が嬉しかったのか、シャルロットの顔は輝くばかり。
シャルロットはやはり顔を綻ばせるのである。
「そういえば、このブローチも結構な値打ちだと聞いたわ。ちょっと汚れちゃったけど、ブレスレットもお役に立ててくれれば嬉しいわ。・・・けど、これ本当に食べ物に変わるのかしら?」
これは生唾を飲み込んで見る、夢にも似た展開だ。しかし人に優しくされた事が無い彼らに理解出来るはずも無く。
それでも、プライドを捨てる道を選んだ彼らはもらえるものは全てもらった。
全ては明日のため―――生きるためだ。
施しをもらえるならば奪ってでもいただく。
目の前には手に届くはずも無かった一国の王女。
黙っていれば、それは麗しくも妖艶な美しさを誇る女が目の前にいて、欲のまま生きてきた彼らの本性は現れた。
ハイエナのように邪な視軸の先には、狙われた子羊がいる。
ふいに、彼女の両腕を未だ掴んでいた男は、こくりと生唾を飲み込んで、荒々しい息で彼女に迫った。
「―――なぁ。あんた・・・処女だろう?最初の思い出がこれだけ刺激的だと、きっと生涯忘れられねぇはずだよなぁ?」
「え?」
「素質があるか見てやるよ・・・」
露骨な荒々しい手が、怪我をさせないような強さでシャルロットを地面に押し倒す。
不意打ちを食らったシャルロットは、その両目が飛び出しそうなほど見開いた。
痛みより、驚きのほうがう上回ったようで―――・・・。
「え・・・っ!」
体全体を地面に叩きつけられ、シャルロットはこれから何が起こるのかも知れぬまま小さく悲鳴を上げた。
それに構わず、小さなシャルロットに馬乗り、イージェスト<奈落者>は欲を隠しきれない眼で射止める。
負担は掛けず、しかし決して逃がさない束縛として。
慌てたのは押し倒された本人では無い。
同じイージェスト<奈落者>の方だ。
「おい・・・っ!!それはやばいって・・・!!」
「いいじゃねぇか。この際、どうせだ。たっぷりと教育してやれよ」
止めるに止められない。近づくのに近づけない。その反応は様々だった。
しかし、無自覚なのだろがあまりにも色っぽいシャルロットの瞳を、もしも淫欲に溺れさせられれと考えた途端、彼らの口は閉ざされてしまった。
むしろそれを楽しむように、シャルロットを囲い込む。
「お、おい・・・」
「あっ?」
「次は、俺な・・・?」
「ああ。分ってるよ。くくく、だが一人は見張ってろよ。アイツが帰って来た時の反応が楽しみでありゃしない・・・」
「一体なぁに?何をするの?」
シャルロットが胃を圧迫する重荷に息を上げて、それだけで彼らは生唾を飲み込む心境だった。
「―――今に分るだろうよ。王女様」
剣呑な目つきがシャルロットの胸元を掴み、両手で引き千切ろうとしたその刹那―――
何か大きな影が、空を浮遊した。
―――っ!?
全員が、息を呑むようにその場で立ち竦み、咄嗟に空を見上げる。
「な・・・なんだ・・・っ!?」
影を追うよりも早く、左から男二人が体を持ち上げられて悲鳴を上げた。
「ぎゃぁあああっ!!」
「うわあぁああ・・・・っ!!ド・・・っ!!離せ・・・っ!!俺は悪くないんだぁああ!!」
空を浮遊する物体は暴れまくるイージェスト<奈落者>達の服を掴み、真紅の翼を大きく羽ばたかせながら、宙に立っていた。
不安な足場と己を餌のように掴む存在に怯え、足を泳がせているがなんら効果は無い。
「―――薄汚いイージェスト如きが・・・っ!!」
人とは思えない朱色の頑丈な皮膚を身にまとい、短い手足には鋭角の爪が五本。
背には本で見る悪魔のものに似た朱色の翼が丁寧に畳みこまれ、大よそその背中には二人分の席が空いている。
首は己の背中を見れるほど長く、頭に魚の尾びれに似たそれが両端から生え、ぴくぴくとその声を聞き取るように動いている。
額にはこの世の五大神秘にでもなりそうなほど、目を釘付けにされそうな丸型のガーネット石が炎を纏ったかのような美しさを閉じ込めて、埋め込まれていた。
長細くも大きな両目は炎のような輝きを放ち、刃物のように鋭い瞳は、間違いようも無く野獣のモノ。
外見からして身の毛もよだつ醜悪なその姿を、人は―――・・・
青の空には目立つその赤。
自由に飛び回る鳥を捕まえられるような気持ちになって、シャルロットは無意識の内に手を伸ばした。
「―――綺麗な、色・・・」
その赤い眼光は、今までに無いぐらいの怒りで燃え上がっているとも知れず。
**********
尚も無駄な抵抗を続ける、無能な餌ども。
「貴様ら・・・っ!俺を騙しやがって・・・っ!」
「ひぃい・・・っ!!違う!!俺が考えたんじゃない!!俺は悪くないんだ・・・!!命だけはた、助けてくれ!!」
「本物なら・・・っ!!本物ならあいつが持ってる!!だからっ!!」
左で抱える男が、震えながら指差す先―――そこには、荷物袋の所持が多いイージェスト<奈落者>が、こちらを凝視していた。
表情などやはり兜が邪魔で見えるはずも無く、しかし彼の臆病な心情は誰の目で見てもよく分る。
片手にシャルロットの切れ髪を。
その荷には目的である宝石を。
己を売られたと思ったのか―――そのイージェスト<奈落者>は大きく首を振った。
「俺は関係ねぇ・・・っ!!知らねぇ・・・っ!!」
膝を笑わせ、今にも崩れ落ちそうなまま、腰に巻いた袋を引きちぎり、シャルロットを束縛する男に向かって、爆弾でも握ったかのように、放り投げた。
結い目の取れた皮の袋は重力に投げた勢いを殺され、生き物も育たない不毛の地面に落ち、研磨の施された宝石が零れる。
それは『緑愛の国』<アベルジ王国>の象徴に相応しいもので、見れば『世界で一番美しい緑石<エメラルド>』とはまさにこれの事だと、感嘆をもらしてしまうほどに。
「おい・・・っ!!」
無残に置かれたその緑石。シャルロットに乗っていたイージェスト<奈落者>は彼女から離れ、慌ててそれを拾い上げる。
現状を理解していないのか、傷が無いことを確認するなり安堵したように、強張っていた肩の力をほぐした。
「うわぁああああ・・・っ!!」
シャルロットの髪を握り締めた事に気づけぬまま、イージェスト<奈落者>の一人は鎧の重さも分らぬまま、暗闇の森の中へ逃走した。
縄張りを逃げ回る獲物など、既に手中にあるといっていい。
そう脅すように、レッドは叫んだ。
「やろうと思えば、この森全体の、葉が一枚落ちる音すらも聞き取れるんだ。油断したな、イージェスト<奈落者>ども・・・!!」
全ての会話を、全神経を駆使して聞き耳を立てれば聞こえないことは無いと―――
レッドは森の中へ逃走を図る輩をわざと見送った後、起き上がったシャルロットが放心しているに視線を寄こした。
彼女の胸元が開きかけ、少し汚れてはいるが白い肌が見える。
大事にしていたであろうその髪が―――前方に少し残った長髪以外、無残にも短くなっていた。
マグマのように煮え繰りかえる熱が込み上げて来るのを、抑えられない。
シャルロットがこのままでは身売りに娼婦として仕立て上げられ、不幸になるかもしれなかった事実が・・・
そして、もしも己が今この場に駆けつけなければシャルロットがどうなっていたか・・・。
頭に血が上るのを知り、レッドの瞳が一瞬にして細まる。
抑えきれない。
モウ―――抑エキレナイ・・・・
野獣の唸りを上げて、真紅を纏ったドラゴンは咆哮した。
「―――生きて帰れると思うなよ・・・っ!」
**********
「レッド・・・?」
シャルロットは息を呑んだ。
レッドの体から白い煙が立ち始め、その表情は本当にドラゴンを感じさせる獣のそれ。
本能のように、体が震え上がる。
火山の噴火を目の前にしたようだった。
あんなレッドは、知らない・・・。
レッドはもっと人のようで―――あんな獣のような・・・ドラゴンのような目は違う。
炎を纏った両眼も、理性を失った恐ろしい瞳が、興奮して三日月型に細まっていた。
「お・・・お願い・・・だ・・・。命・・・だけは・・・っ!!」
「あ・・・ああ・・・・っ!!たす・・・っ!」
既に抵抗の色は無く、恐怖に怯えた羊そのもの。
恐怖の境界線を越え、一人が現実に耐え切れず気絶した。
不幸にも気絶する事さえできなかったもう一人は、レッドの手の中で子供のように泣きじゃくりながら懇願を続ける。
シャルロットは未だ竦みあがったまま、声も出せずにいた。
彼女が初めて感じた恐怖だった。
立ち上がることも忘れて、シャルロットはこちらに見入っている。
正真正銘、本物のの宝石を握り締めた男はこのままでは己すら殺されると予感し、レッドから視線を逸らさぬまま退歩していく。
さながら森で熊にでもあったような対処だ。
もはやこのイージェスト<奈落者>達には、本来の目的など脳内に無かった。
己の命すら助かれば良いと、仲間を殺されてでも生き延びる方法を必死に小さい脳で考えている。
「おね・・・がい・・・だ・・・・っ!!何でも、何でも・・・っ!!」
「―――おい。もう一人いただろう。その男はどこへ行ったっ!!」
レッドを侮蔑せず、逆に同情されたあの男。
市民権を望み、シャルロットを最初にその肩で運んだあのイージェスト<奈落者>はどこだ。
殺せる良い機会だと、レッドは口を歪めて牙を剥く。
答えねば食い殺す―――レッドの脅迫に呂律が回りきれない男は必死に言葉を作った。
「知らねぇ・・・っ!!道探しに行ったままもどっちゃいねぇ・・・っ!!」
「―――そうか。お前らが命張って仲間を守るとは思えないからな。なら・・・」
シャルロットを一瞥し、レッドは目元すら和ませる。
しかしその眼に映っているのは紛れも無い憤りの色。
無情に公開処刑でも宣告するように、レッドは両手を離した。
「―――死ね」
「うあぁああああ―――」
鎧を纏った男達の体が、勢いよく落下する。
森全土に響き渡りそうな断末魔の叫びが途切れたと同時に、二つ分の鎧が地面に叩き落された。
ぐしゃりと、嫌な音がする。
見ればその周りから赤い液体が地面に侵食し、広がっていった。
「・・・っ!!」
あまりにも残酷なその光景を目の当たりにして、シャルロットの目には涙が溜まった。
肩を大きく揺らし、過呼吸で無ければ空気も吸えないのだろう―――体を震わせて、開ききった瞳孔すらも痙攣している。
次は己の番だと、一人宝石を片手に生き残ってしまった男は硬直したままだった。
それはまるで金縛りのように―――足は地面に貼り付けられて動けないのだ。
イージェストは仲間の死体を前に空笑いを浮かべ、離さないと決めていたそれをレッドに差し出した。
「―――わ・・・悪かったって・・・。ほんの、冗談だったんだ・・・・。ほら、これが本物だ・・・。お前の求める、本物だ・・・」
「ほう。それがそうなのか。危うく国を滅ぼしに行く所だったぜ・・・」
レッドはそれを受け取るためなのか、静かに降り立った。
赤い翼をたたみ、イージェストの目の前にまで鼻を近づける。
匂いを嗅いでいるのか、それともその姿を頭からつま先まで観察しているのか―――
全てを噛み砕く牙を目の前に、男は竦みあがったまま石造のように微動だしない。
ふいにレッドは、暴君のような笑みを零した。
「―――冗談が過ぎたな」
宝石を重そうに掲げる男目前に、蛇のような口を大きく開く。
先見に男が悲鳴を上げる前に、吐き出された赤い炎によって、形あった鎧姿が粘土のようにドロドロに溶けていく。
それは悲鳴なのか。喘ぎなのか―――
獣の叫びに似た声が、その残酷さをありのままに物語っていた。
宝石は一瞬にして溶けてしまい、男の皮膚が爛れ、肉が溶け、骨が―――・・・
シャルロットはあまりにも残酷な光景に息の方法すら忘れたように口を開いたまま瞳孔を揺らす。
「う・・・そ・・・」
悲鳴を上げないように口元を押さえ、広がりつつある血の侵食から逃げる事も出来ない。
血の気の無いその顔は今にも倒れてしまいそうなほど青かった。
既にその場はこの一人と一匹だけ。
まるで汚物でも見るようなレッドの眼は、シャルロットを見た。
蛇に睨まれた蛙のように、シャルロットの怯えは大きくなるばかり。
「レッド・・・っ!!何故・・・何故・・・こんな・・・・ひどい・・・・」
「―――ひどいだと?・・・ああ、ひどい有様だぜ」
ゆっくりと、シャルロットを追い詰める四足歩行の獣がやって来る。
シャルロットは震える唇から悲鳴が上がりそうになるのを堪えた。
必死に口元を押さえ、沸き起こる吐き気に己を守るように体を丸くする。
人肉が焼けたその匂いは異臭を放って、空気を汚していた。
「っ・・・う・・・っ!!」
そもそも人の醜い死に方をその目で見て、正常でいられる方がおかしいのだ。
ふいに、レッドは顔を上げて両耳をぴくぴくと動かし始める。
不快そうな眼が細まった。
「―――シャルの匂いだ。お陰で直ぐに居場所が分りそうだぜ・・・」
シャルロットの前を立ちはだかるように、二足で立ち上がったレッドは空を仰いで再び鼻で遇った。
間違いなく彼は再びその手で人を殺めるつもりなのだろう。
それも己の怒りが収まるまで―――だ。
レッドが地面を蹴るよりも早く、シャルロットはようやく掠れながらも叫んだ。
「駄目っ・・・!殺しちゃ、駄目っ・・・!」
縋るように手を伸ばし、シャルロットは引き止めるようにレッドの足に触れた時だ。
文字通り、彼女の体は飛び跳ねた。
「・・・っ!」
怒りに体温調節が出来なくなったレッドの体は、焼け石のように熱く。
触れる事を許さないと、そう言っているようだ。
冬が終わった春だというのに、近くにいるだけでも暑い―――
レッドがここでようやくシャルロットの存在を認識したのか、視線を僅かに下ろした。
レッドの目に映っているのは、恐怖と必死に戦うシャルロットだけ。
逃げていく足音が遠ざかり、それでもレッドはまるで余裕を感じさせるように無言となって、開きかけた翼を閉じる。
ほうと、シャルロットは安堵の息をついた。
それでも震えは止まらないようだった。
「・・・髪を切ったのはあの男か?」
「えっ?」
「髪を切ったのはあの男かと聞いているっ!」
怒号の叫びに、シャルロットはびくりと肩を大きく震わせた。
「違う、わ。私が、いいと言ったのよ・・・」
「何のためにだ。脅されたんだろう・・・っ!!差し出さなければ殺すと。そうだろう!?」
でなければ、何故その髪を―――婚姻前の美しい状態を捨てたのか。
何故そこまで短く、無慈悲に切ってしまったのか。
何故、何故何故―――!!
何故、怯えている!!
牙を剥き、問い詰める。
余裕をなくしたレッドの瞳は動揺に大きく揺れ、しかし、彼のその興奮状態は異常じゃなかった。
「違うわ。私の髪があれば、生活していけるんだって・・・。だから―――・・・」
だから切ったのだ。きっとまた直ぐに伸びるから、だから。
理由は分った。その心も知っている。だが、レッドにはそれが許せなかった。
『何か』が許せなかった。
「馬鹿野郎めがっ!!騙されたも脅されたも同じじゃねぇか!!―――少しはこの世界を疑え!!お前は危うく襲われかけたんだぞ!!その意味が分らないのか!!」
「違う、わ・・・っ!!違うわよ・・・っ!!ただ、私は役に立ちたかっただけなのに・・・っ!!幸せにして、あげたかっただけなのに・・・っ!!」
「死んで当然の奴らに大事なモノを与えたんだぞお前は!!」
「だからって・・・殺さなくても・・・っ!!殺さなくっても良かったじゃない!!」
涙を貯め、その声は今にも掠れて消えてしまいそうだ。
それでも己の怒りと悲しみをぶつける様に、己が殺してしまったに等しいのだとシャルロットは苦しんでいた。
「私の・・・せいで―――・・・っ!!」
シャルロットはその重荷に耐え切れず、両手で顔を覆って泣き出した。
声を押し殺し、ただすすり泣く様に。
それに狼狽したのはレッドだった。
顔を歪ませてみたい―――そう望んで、いざ見た時の彼女の弱々しい姿に、レッドは釈然としない気持ちを抱く。
勘違いするなと、レッドはシャルロットに背を向けた。
シャルロットに迫りつつある血の沼から彼女を守るように、その尻尾が地面に落ち、その侵食を遮断する。
赤いその尾に、黒にも近いそれが付着した。
「偽物を渡したあいつらが憎いっ!ただそれだけだっ!」
「お願いレッドっ・・・!もうこれ以上は―――・・・っ!!これ、以上は・・・っ!!」
「話せば分かり合えるとでも言うつもりかっ!?こうやって話し合った結果がこの有様だぞっ!?話し合いで解決する甘い世の中じゃないんだっ!理解しただろう!!この世界の醜さをっ!!」
レッドは笑みを深めた。
不気味な―――笑みを・・・
「殺す、痛めつけて殺してやるさっ!」
「レッドっ!止めて・・・っ!」
シャルロットの静止の叫びすら届かないまま、レッドは恐るべき速さと力で地面を蹴り上げ、木をなぎ倒しながら進んでいく。
「レッド・・・っ!レッド・・・っ!」
残されたシャルロットは立ち上がろうとするが、力を無くした脚ではそれが適わず。
腰に力が入らないのだ。まるで感覚が無く、シャルロットは無我夢中で立ち上がろうともがくが、その場で転ぶばかり。
その時だ―――
「・・・っ!?」
「行くぞ・・・」
シャルロットの手を強く引く存在が、いつの間にかそこにいたのだ。
**********
その場一帯の木はまるで根こそぎ折られたように四方八方へと倒れている。
地面に生えていた草は土色を見せ、少しばかり焼け焦げたような痕が残っていた。
そしてその中心―――レッドは血だらけの亡骸を見つめながら、その手に持っていたシャルロットの綺麗な蜂蜜色の髪をその手で持ち上げる。
―――が、レッドの体温があまりにも高すぎたのだろう。
その髪が―――燃えてなくなってしまった。
無残にもその赤い手に残ったのは灰と化した、まったくの別物。
どんなに意識しようとも体温の調節が、彼には出来なくなっていたのだ。
「ち・・・っ!」
綺麗なモノに、穢れたモノが触れる事は敵わない。
そう世界に言われているようだ。
お前に触る権利は無いのだと。
―――なんて世界は不公平なのだろう
綺麗なモノに触れさせてもらえないのが腹立たしい。
綺麗なモノ・・・?
自分は今この髪を綺麗なモノと認めた―――?
レッドは首を左右に振る。
(違う・・・っ!よく見てみろっ!もう黒焦げで何がなんだか分らないじゃないかっ!シルクの糸の方がよっぽど綺麗に決まっているっ!こんな癖毛など―――!!)
レッドは残ったそれを地面に落とし、否定するように足で踏みつけた。
しかし既に形を成していないそれは砂のように地面に広がるばかり。
更に踏みにじり、ふいにシャルロットの香りが思わぬ速度で城の方へ向かっているのを嗅ぎつけると、動揺したその表情は余裕を無くす。
一人で走って逃げるにしては速すぎる。
彼女が向かう方向を見つめ、その隣の忘れもしない嫌な匂いすらをも見つけてしまった。途端にレッドはうなり声を上げた。
丸さを取り戻していた瞳孔が再び鋭く尖りを見せつけ、レッドはただ憤りの感情に任せて翼を広げる。
綺麗なモノは穢れてしまえばいいと願いながら、レッドは穢そうとする存在を憎んだ。
シャルロットを襲う何もかもの不幸がこんなにも許せない!!
己の考えが、あまりにも矛盾していているとも気づけないまま。
(殺してやる!!)
―――残りは、1人・・・
推敲更新日
2008年10月05日