世界で一番・・・<第12話>






「レッド・・・?」

シャルロットは身を凍らせるほどの寒気に襲われ、声の元を辿るように後ろを振り返る。
あまりにも痛々しい叫びであり、悲鳴だった。
だからこそシャルロットは嫌な予感に身を一瞬だけ震わせた。

「王女様。さぁ―――先を急ぎましょう」

僅かに動揺した兵士の声。
そういえば、あれだけいた兵士の数が僅かに減ったようにも思える。

「他の方々はどこへ行ってしまったの?」
「・・・さぁ、参りましょう。王女様」

頑として譲らないその声と、周りを囲むようにして見つめる兵士を一瞥した。
シャルロットは嫌な予感から不安に駆られ、口を閉ざしたまま来た道を凝視する。

「王女様」
「アーロンはどこへ?」
「直ぐに追いつかれる事でしょう」
「・・・レッドはどうしてしまったの?」
「レッドとはあのドラゴンの事ですか?ご心配なく―――」
「嘘よ。悲鳴が上がったわ?」
「ご心配なく。王女様は何も心配なさらなくてよろしいんです」


―――いつもそうだった

いつもこうやって言葉を濁される。
だからシャルロットは綺麗な所しか目にした事が無いし、知らない。
しかし今ではそれがどうしようもなく腹立たしく思え、シャルロットは力強い口調で尋ねた。

「―――ねぇ?レッドに手を出していないわよね?」
「・・・。王様がお待ちかねです。王女様」
「レッドは人を傷つけないと約束してくれたわっ!だから大丈夫なのよ?ねぇ、レッドを殺そうなんて・・・そんな事はやめて頂戴?レッドにも心があるのよ?分かり合えるのよ?だから―――」
「王女様。お言葉ですが、その体の傷跡は一体どうされたのですか?」

シャルロットは一瞬言葉を失ったが、それでも相手を睨む勢いで言った。

「転んだ・・・だけよ」
「その髪はどうされたんです?」
「・・・邪魔だったから・・・」
「何故あのドラゴンをお庇いになられるのですか?」



「レッドは何も悪くないからよ!!」



その場に残った全員が、驚いたように息を呑んだ。
その場は静まり返り、重い空気を切り裂いたのは周りの動揺に流されず、ただ冷静に黙していた兵士だった。

「お言葉ながら王女様。美しい美しいワナマール<聖女様>。あなたの存在は我々にとって、唯一絶対の母にして恋人、崇拝するべく女神。それをあのような醜いドラゴンなどに汚され、殺生にもただ黙って見ていろとおっしゃるのですか?敬愛すべきワナマール<聖女様>。あなたはわが国の誇りです。誇りを穢され、それを許せとあなたはおっしゃるのですか?」
「私は―――」
「言葉を返すようですが、愛しきワナマール<聖女様>。あなた様の身上は、国の運命と栄光を背負っていらっしゃる。全国民の未来を握っていらっしゃるのです」

私が何を言おうとしているのか、お分かりになりますか。
彼はそう言っていた。
それを理解してしまったからこそ、シャルロットは何も言えなくなってしまった。
自分の心など―――存在してはいけなかったのだと、今更ながらに理解したような心地に全身の力が抜け、視界が暗くなって道が分らなくなる。

この身は―――国を繋ぐための捧げ物。

意思など、存在してはいけない。
けれど、それが当たり前で、それが自然で、それを受け入れられていたあの頃にはもう戻れない。
我慢出来なくなったシャルロットは静かに言った。

「―――私が汚されたと思うなら、そう思っていればいいのよ。この姿が少し汚れて、少し傷ついたからといって、ただそれだけで汚されたと思うのは間違っているわ。私は汚されてなんかないの。・・・私はレッドが好きよ。それの何がいけないの?」

「相手は赤を身に纏った醜いドラゴンですっ!そんな化け物を―――」

シャルロットは、レッドが馬鹿にされたような心地に、頭に血が上るのを知った。
今まで感じた事の無い感情に、シャルロットは叫ぶ。

「あなたにレッドの何が分るの?あなたはレッドが赤いというだけで嫌って、ドラゴンだからという理由で醜いと言うわっ!目先だけの姿に囚われないでっ!あの澄んだような赤い目を知っている?あの優しい心を知っている?あの穏やかな笑顔を知っている?レッドにも心はあるのよっ!愛しむ心も、優しさも、喜びも、悲しみも―――全部レッドにだってあるのよっ!?」

今までこうやって抵抗した事が無いシャルロットの様子に圧倒され、兵士の誰もがただ呆然とする。
その場にいる全員が、同じ事を考えていた。



この王女は―――あのドラゴンに・・・



「王女様。あなたは全てのモノを平等に慈しみられ、愛でられるような慈悲深いお方です。故にあのような異形者<レッド>にも同情を―――」
「同情なんかじゃないわっ!」

シャルロットは渾身の力で周りの兵士達を押し倒すようにレッドのいる方向に向かって走り出した。

「王女様っ!」
「は、早くっ!王女様を―――」
「王女様!」
「王女様っ!」

しかしシャルロットは振り返らない。
王女なんてこの世にたくさんいる。
彼らは自分の事を呼んでいる訳ではないと、それを振り切った。

だって自分の名前は『王女』ではないのだから―――

(レッド・・・っ!)
捕まえようとする手を振り解きながら、シャルロットは恐るべきスピードで戻っていくのを、兵士達はただ呆然と見送ることしか出来なかった。




**********




「ぐぅ・・・っ!」

レッドは激しい痛みに呻く。
片目の矢を抜けば、血が滝のように勢いをつけて噴出した。 その手が痛みを隠すように押さえ込むが、既に抑えなど無意味に等しい。
血がどくどくと、留めなく流れていくのを感じ、体から何かが抜けて力が入らなくなってきた。
眩暈が襲い、吐き気を耐える。きっとこの片目はもう二度と光を見ることは無いかもしれない・・・。
もう片方には目じりの鱗を貫いた矢が残っていた。
どうにか失明は免れたが、視界はもはや血の色で染まり、世界が歪んでいる。
震えるもう片方の手がゆっくりと取り除けば、やはりその目元からも血が溢れ出た。
目を開けていることが苦痛となり、瞼が下り始めるのを踏ん張る。
レッドは最強の赤を身に纏ったドラゴン。
矢ごときにその皮膚を貫かれることは無いのに、それが今破られたのだ。

最強では―――無くなっていた。

レッドは激痛の走る目から滴る血を、片方だけとなった視界が捉える。
それは幾度も野原の緑を汚すように地面に落ち、吸収する土はかすかに赤に染まった。

「・・・っ!」

痛みでその場に跪き、少し離れた場所へと移動していたアーロンをぼやけた中でも凝視する。

「アーロン・・・っ!」

しかしレッドには恨むことが出来なかった。
だから、ただ見るだけ。
レッドの悲鳴が合図となったように、召集していく兵士達の歓喜に満ちた笑顔を見た。
兵士達がどんどん増えていき、もちろんその手には既に武器を持っているのを辛うじて確認する。
きっとそれでレッドを攻撃するつもりなのだろう。

「―――辛うじて片目だけは失わずに済んだか・・・」

アーロンは涼やかに腰ベルトに装着されていた鞘から抜いた剣を、レッドに向けた。
その目には憎悪に漆黒が燃え上がり、しかしレッドが凝視していたのは閉じられたままの瞼。
アーロンが片目を失った理由を、レッドは知っていた。

アーロンと同じように、同じぐらい鮮明に覚えていた。

剣を抜く音が所々から聞こえ、じりじりと近寄る兵士達を見る事無く、レッドは諦めるようにもう片方の目も瞑る。

視界は、既に無い。

真っ暗な暗闇しかレッドには見えず、しかしそうしたのはこれから自分に起こるその光景を見たくないからだ。
覚悟が出来ている以上―――それを受け入れるつもりでレッドはまるで抵抗できない様を兵士達にわざと見せるように両目を閉じたのだった。
レッドは止血するように抑えていた片手も下ろしてしまい、目を瞑ったまま二本足で立ち上がる。
攻撃に備えて何かをするわけでもなく、自分を守るために構える訳でもなく、無防備を装うようにレッドは顔を下に傾けた。


―――痛い・・・


しかしそれは目が痛いからというだけでは無い。
シャルロットは―――もう行ってしまった
二度と会えないのだ。
笑顔も見れない。
声も聞けない。





同じ世界で生きる事も―――・・・





それでも後悔していない自分に気づき、自嘲するように深く息をつく。
痛みで動けないレッドに好都合と感じたのか、自分を勇ませるような声を上げて自分に襲い掛かってくるのを、その聴力だけで感じ取った。
ほんの少しだけ恐怖心が過ぎったが、シャルロットの事を思い出せば本能のように動き出そうとする体を留める事が出来た。
呼吸を飲み込んだ瞬間―――鋭い痛みが腕から伝わり、思わず悲鳴を上げそうになる。
歯を食い縛ったまま恐怖と戦い、レッドは鈍い痛みを体のあちらこちらから感じながら体中が熱くなるのを知った。
目を開かずとも分る、その痛み。


鱗が剥がれ、肉を引き裂き、血が流れる―――


「殺せっ!」
「悪竜の首を持ち帰るんだっ!」
「我らの王女を穢した天罰だっ!」

爪を剥がされる感触だ。
皮膚を生きながら剥がされる心地だ。
肉を引き裂き、その骨の髄までも届く衝動だ。

痛い。
痛い。


気が狂ってしまいそうなほど、辛い。



そんな怒りの声を受け流しながら、尻尾を切り落とされた痛みに鈍く悲鳴を上げる。
更に鈍い音と共に、両方の翼が逃げ道を塞ぐようにへし折られたのを痛みで悟った。
しかし苦しみも、怒りも何も湧き起こらない。
死んでしまう恐怖心すら上回る不思議な気持ち。
彼女がいるこの世界を―――レッドはもう憎めなかったのだ。
たとえ、殺されることになろうと―――きっとレッドは二度と世界は穢れていると感じることはないだろう。


『綺麗ね』


彼女の笑顔が目に浮かび、レッドはその微笑に答えるように内心で呟く。


そうだね―――世界は、綺麗だ・・・


意識が翻弄し、今にも倒れそうな体を持ちこたえた。

足を踏み潰すような痛み。
腕をもぎ取ろうとするような痛み。
首を切り取るような痛み。

やはり、レッドは抵抗しない。
いや―――もはや抵抗など出来ないほど弱り、立っている事が精一杯。
彼の体は赤黒く染まり、不意に牙を剥かぬ口元から赤を吐き出す。
だから、兵士達は図に乗ってレッドを我先に仕留めようと、手に持った凶器で何の躊躇も無く攻撃した。
レッドはただその瘴気を飲み込むようにそれを受け流し、くぐもる様な悲鳴を上げる。
鋭い痛みに悲鳴を漏らしながら、レッドは決して反撃はしなかった。



―――もう・・・傷つけない



シャルロットの、笑顔が目に浮かんだ。
嬉しいと抱きついてくれたシャルロット。


二度と泣かせるものか―――・・・


暖かな気持ちに、レッドは薄く微笑を浮べる。



その刹那―――



ずぶりと―――胸に何かが突き刺さった。
呼吸の方法を忘れ、レッドは息を呑む。

「―――これで終わりだ・・・っ!」

近くで聞くアーロンの声。
何かが解き放たれたような痛みが麻痺した。
アーロンの剣が抜き去ると同時に、レッドの巨体がどっしりと音を立てて後ろの地面に崩れ落ちる。
同時に兵士達の喜びにより歓声が上がった。
体はもう・・・鉛のように重すぎて起き上がらない。
レッドは、いう事を聞かない。けれど唯一世界を見れる片目の瞼をのろのろと持ち上げる。
歪んだ視界の中 ―――シャルロットに見せたバラの花を目にした。


バラを見て、それを喜んでくれた可愛い人―――


笑顔を振りまき、それが自分だけのものだったと、ただその優越感に息をつく。
レッドはここでようやく後悔した。


―――言っておけば・・・良かった・・・と


神秘的に咲く、赤いバラの花―――


赤を綺麗だと言ってくれたシャルロットと、もっと早く出会っていれば良かったのかもしれない。

そうすれば『呪い』に掛かる事も、世界を憎む事も無かったかもしれない―――

もっと早く・・・―――


けれど、それでもシャルロットと会わせてくれた奇跡に感謝を―――

世界は、美しい。

この世でただ一人しかいない一番を、巡り合せてくれたのだから―――



―――レッド・・・



彼女の声がする。
いつ聞いても綺麗な声だ。
けれど何故そんなに悲しそうなのか・・・


―――レッドっ!


今度ははっきりとその声がした。
驚きに紛れ、張り裂けそうなほど何度も名前を呼んでくれる。
レッドはそれが嬉しくて、内心で思わず微笑んだ。


なんだい?・・・シャル・・・―――




**********




体がより一層赤い。
血まみれの長い尻尾が切られ、無造作に抉られた肉片や、綺麗だった鱗が捨てらるようにして、野原に転がっているのを見た瞬間―――

「嘘・・・よ」

血が逆流するような衝動に駆られ、血の気が引くのを感じた。
レッドの長い首が倒れている。
レッドの大きな体が倒れている。
その体は生々しい傷跡がつけられ、シャルロットは悲鳴にも似た甲高い声で叫んだ。

「レッドっ!」
「シャルロット様・・・っ!何故ここに・・・っ!」

アーロンの動揺したような声に、周りの兵士達もいないはずの人が来た事に唖然とした様子を見せる。
しかしアーロンはここで我に返り、肩で息をつくシャルロットが走ってこちらに来ようとするのを妨害するように、向き直った。
他の兵士も、これ以上進まないようにとレッドに背を向けてシャルロットの道を塞ぎ、後ろからも「王女様」と引き止めるように叫ぶ。

「レッドォオっ!」

シャルロットはただ一心にレッドを映し出し、走り出す。
腕を掴むその手を強引に振り解く。
暴れ馬のようになだめる者振るい落とし、暴牛のように壁となる者に突進、時には襲い来る者を躊躇無く否定して突き飛ばした。
見た目には似合わない、あまりの力強さと、無理に止められ無い相手。もはやドラゴン以上の強者に、誰もが狼狽するばかり。
唯一その小さな身を捕まえようと構えたアーロンにも、シャルロットは正面から対峙した。
しかし、シャルロットの目にアーロンの姿は無く。

「シャルロット様!!なりません!!」
「レッドレッドレッド!!!レッドォオオ!!」

アーロンは血で濡れた己の身体に最初こそ躊躇しながらも、彼女をあのレッドの元まで行かせるよりはましだと思ったようで。
通り過ぎようとしたその身をアーロンは背中から抱擁し、しかしそれはシャルロットを手中から逃がさないための束縛でしかない。
腕の中でもがく小さな少女の力強さに、アーロンも余裕をなくして顔を険しくさせる。

「シャルロット様・・・!!」
「離しなさい!!離してぇええ!!」

置いて行かないでとせがむ様に。シャルロットは手を伸ばして、既に動かないレッドを掴もうとする。
鎧を着ているというのに、彼女が拳を振り下ろせばそれはものの見事凹んでしまった。

「・・・っ」

その衝動は内臓にまで響き、アーロンの額に冷や汗が浮かんだ。
彼女の獰猛さを押さえ込むのは今の彼に勤まる訳も無く、シャルロットの肘がアーロンの胸を突き、少し怯んだ間に小さな体は絡みつく物を引き剥がすように逃れる。
もう一度捕まえようとしたが、その機敏さに成す術は無かった。

「シャルロット様・・・っ!」

酷く動揺したアーロンの声を受け流しながら、シャルロットはついにレッドの体に飛びつく。

「レッドォオっ!嫌ぁあっ!死んでは駄目っ!」

地面に倒れたその首に触れ、ひゅうひゅうと苦しそうに呼吸をするレッドはうっすらと片目を開ける。
その片目は血だらけで、もう開けることすら出来ないのだろう。
翼が変な方向に折れ曲がっていた。
肩の肉が抉られている。しかしそこだけでは留まらず、頬や横腹に太もも。頭に生えた耳が皮一枚で繋がっていた。
うっすらと白く、柔らかそうな胸には剣を突き立てた深い傷。
血だらけの体を痛ましそうに眺めてから、シャルロットは意識が消えてしまいそうなレッドを攻めるように問いかける。

「レッド・・・っ!何故・・・っ!?何故自分の身を守らなかったの・・・っ!レッド・・・っ!こんな・・・こんな―――」

小さく、レッドの口が動く。


「や・・・く、そ・・・く・・・」


シャルロットは目を見開いた。

傷つけることしか出来ないと言ったレッドに、『誰も傷つけないでくれ』と頼んだのは自分だ―――

それを約束させたから―――レッドはそれを守るために、何も出来なかった。


私の・・・せいよ―――


「レッド・・・っ!ごめんなさいっ!レッド・・・っ!私を、許して・・・っ!」

レッドは、残った片目を揺らしながらも力なく微笑んでくれる。
それはまるで『当たり前』だとでも言うように、とても穏やかなものだった。

「レッド―――・・・っ!」

あふれ出す涙。
止まらない気持ち。

痛い―――

ドレスが血に赤く染まったが、そんな事は関係ない。


「シャルロット様―――お下がりください・・・っ!奴は―――!!」
「お黙りなさいっ!」

ぴしゃりと、シャルロットが顔を上げてアーロンに言った。
涙で視界が歪み、それでもアーロンだけでなく兵士達にすら睨みつけ、シャルロットは叫んだ。

「何故こんな酷い事を・・・っ!何故、何故、何故なの・・・!!酷いわ、酷い・・・!!何故こんな酷い事を・・・!!レッドは―――悪竜なんかじゃないわっ!レッドは優しいのに!!私のために助けてくれたの!!私のために許してくれたの!!私のために―――薔薇を見せてくれた・・・!!彼は私の大事な人よっ!私の大事な―――大事な・・・っ!」

シャルロットは泣いた。
胸が苦しくて、張り裂けそうだ。
痛くて痛くて、その想いがそのまま涙として出てくる。

「レッドは、世界で一番―――好き以上に・・・大好き以上に・・・・っ」

名前を呼んでくれるのが嬉しい。
笑ってくれるのが嬉しい。
まるで必要としてくれているようで嬉しい。

非力な自分が―――レッドを変えられた。
自信をくれたレッド―――
戯言だと、もちろん最初は貶されたけれど、それでも馬鹿にしたように笑う事はしなかった。
きっと本来はものすごく穏やかで、優しくて―――
その大きな体に潜んだ心はシャルロットを救ってくれた。


「レッド・・・っ!置いていかないで・・・っ!」


最後は声を絞り出すようにそう言って、シャルロットはその大きな体に顔を伏せる。
心臓の音が、小さくなっていく。



―――私の大事な・・・




**********




レッドは今にも暗闇に消えそうな意識の中、小さな雫が幾度も体に落ちていくのを感じた。

―――泣いているのか?

けれど、何故泣いているのかが分らなかった。


だって―――傷つけていない


誰一人として、怪我なんて負わせなかったのに―――・・・

君は苦しそうに泣いている
悲しいと、君は泣いているね

泣かせたくなかったのに・・・
喜んでもらえると思ったのに・・・

早く笑顔を浮べて安心させないと―――
名前を呼んで、皮肉な口を利いて―――

けれど、体は重りがついたように動かない。

おかしいな・・・
困ったな・・・

君が泣いている理由が分らない

ほら―――
泣かないで―――・・・



僕は君を泣かせたくないんだ―――





**********






「ねぇ・・・っ!お願いっ!死なないで・・・っ!」

シャルロットがぽろぽろと涙を零し、それを眺めながらレッドは眠そうに瞼を少し上げる。
額にあったガーネットの石が音を立ててヒビを更に深くし、僅かに瞼が重くなった。

「いや・・・っ!レッドっ!目を閉じないでっ!」

シャルロットは首を左右に振って、いなくならないでくれと尚も泣いた。
レッドの口は何も動かない。


動かなかった。


ただ穏やかな獣の目が、シャルロットを見つめる。
泣いたその顔はくしゃくしゃで、それでもレッドにはそれが綺麗に見えた。

―――シャル・・・
可愛いシャル。美しいシャル。綺麗なシャル。


―――愛しいシャル・・・


シャルロットはレッドの体から手を離さない。

「レッドっ!私レッドを愛しいと思うのっ!こんなに胸が痛んでいるわっ!ねぇ―――お願いだから死なないでっ!私ずっと傍にいるからっ!だから死んじゃ駄目よっ!」

それが嬉しくて、レッドは力なく笑みを作った。

「シャ・・・ル・・・―――」
「レッドっ!私を・・・置いていかないでっ!私・・・私っ!」

綺麗な顔が、歪んだ。
涙が溢れて、その雫がレッドの顔に落ちる。
レッドはただその涙を流すシャルロットを愛しそうに見つけ続けた。

言ってもいい足りないほどの謝罪の言葉―――
ごめんねと、しかしもうそれすらも言えない。

言ってもいい足りないほどの感謝の言葉―――
ありがとうと、しかしそれすらも・・・もう言えない。

泣かれるのは嫌だったが、しかし今泣いてくれる事が嬉しい。


自分のためだけに―――泣いている・・・


嬉しい―――
綺麗な―――涙だ
その泣き顔すら美しいと思う。

笑顔も、怒った顔も、拗ねた顔も―――

全てが、美しい少女だ―――

シャルロットの綺麗な瞳を見つめながら、もう一度あの太陽のような笑顔が見たかったと、後悔の念だけが残ってしまう。
レッドは重くなった瞼を徐々に下ろしていきながらも、最後の光を見るようにシャルロットを見上げた。

「レッドっ!」

悲痛な叫びを聞きながら、暖かな気持ちに目じりが熱くなる。
初めての経験に胸が張り裂けそうなほど痛み、しかしそれ以上に熱い。

これが―――『幸福』か。

幸せだ。どうしようもなく・・・幸せだ。


だからどうか聞いてほしい―――
君を傷つける事になるかもしれないが、迷惑をかける事になっても、それでも聞いてほしい―――・・・

レッドは既に見えなくなってしまった視界の中、体が心地よくなっていくのを知った。

ずっとずっとずっと。
きっと、たぶんこれからも―――・・・

レッドは最後に、死んでしまうその最後に―――言った。




「あ・・・・い・・・―――」



言い終えるよりも早く、額の宝石は砕け散った。
震える瞼も動かなくなり、そしてその大きな口も動かなくなる。
レッドの目じりから―――まるで赤を洗い流すように両目から涙が零れ落ちた。
もう二度とその口が皮肉をいう事も、暴言を吐く事も―――シャルロットの名を呼ぶことはないだろう。



―――『愛している』



シャルロットがレッドの残したその言葉を聞く事無く、レッドは命を散らした。




**********





寝てしまったように動かないレッドの体。

「レッド・・・?」

残った片目の瞼を閉ざし、まるで寝ているように穏やかな顔だ。

熱かったはずなのに、冷たくなっていくレッドの体―――

不安以上の衝動に駆られ、シャルロットは名前を呼んだ。

「レッド・・・っ!」



シャルロットが震える手を伸ばし、血に濡れたその頬に触れた瞬間―――



兵士の声が驚きに変わり、シャルロットは息を呑む。


―――これは奇跡と呼ぶものなのだろうか?


その足も、手も、切られた尾びれも、顔も全て―――


まるで魔法のようにレッドの体が瞬時にして全てがバラの花びらへと変わった。


本当に―――不思議な光景だ。
シャルロットを励ますように、舞い散っていくバラの花びら。
風に踊らされ、赤の美しさをまじまじと見せ付けられているようだ。



―――薔薇の花が万弁に広がる場所で告白されてみたいと思うもの・・・



ああ―――・・・
なんて、綺麗。




―――『愛している』って言われているみたいで素敵じゃない?




青い空の美しさが嫉妬してしまいそうなほど、赤い花弁は視界に埋め尽くされる。






『愛してる』





それは無言の愛の告白。
悟って、知って、シャルロットは涙を零す。
シャルロットの脳裏に浮かぶのは、レッドと対話した光景だけ。
その表情が次々とシャルロットの記憶を塗り替えていく。


―――シャル・・・


穏やかで、だけど荒々しいその声を思い出せなくなった。
怒って、笑って、照れて―――
レッドの表情も、全て儚い幻想だったように消えてなくなった。
シャルロットは声も出せず、ゆっくりと首を左右に振る。


「い・・・や・・・」


もうレッドは記憶だけの―――思い出だけの存在。
この世界にはもういない。二度と話せない。会えない。

「い・・・や・・・っ!」

そこにあったはずの―――いたはずの存在がいないことに、シャルロットは信じられず、現実を受け入れないままだった。

右を見る。しかしそこにいるのは兵士だけ。

左を見る。しかしそこにいるのは兵士だけ。



いない。いない。いない。



もうどこを探しても―――あの赤いドラゴンを見つけることは出来ないのだ。


「いやっ!」


シャルロットは現実を否定するように、今度は大きく首を左右に振る。
例え人の身でなくても、シャルロットはそれでも良かった。
シャルロットが恋したのは、その不器用な優しさを持ったドラゴンの心なのだから。




愛していた―――・・・



いつの間にか、本当に何がきっかけかなんて思い出せないけれど、それでも愛していた。
そう自覚すれば、失ったその悲しみに胸が押しつぶさせる。
涙が留まる事無く溢れ出し、流れていく涙は地面に染み込んで消えていく。

もう―――
レッドは―――・・・・







「いやぁああああ――――あぁぁっ!」







自覚した途端―――断末魔にも似た少女の鳴き声だけが、レッドの死を痛んで泣き続ける。




きっとこれは悲恋なのだろう。
姿に囚われず、ただ互いがその心に惹かれ合った。

それでも、それを許さない悲運の定め―――

禁断にも似たその恋は儚く散り、王女はいるべき場所へ帰還する。

『赤いドラゴンと王女の話』

噂が物語りとなり、多くの者に語り継がれる切ない哀しみのトラジディ<悲劇>となった。






推敲更新日

2008年10月05日

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