誇り高き王女の名は・・・<中編>








―――雨に紛れて聞こえる泣き声

それは今にも消えそうなほど小さく、押し殺したような呼吸音だけが静かに木霊する。
青のバラ庭園―――その小さなドーム状にバラを絡ませて作らされた空間で膝を抱えるのはまだ幼い一人の少女。
寂しさから泣いているのではなく、ただこの『名前』をバカにされたのが悔しいだけだ。

お父様が大好き。
お母様も大好き。

大好きな二人がくれた名前を侮辱される苛立ちと怒り―――

全ては第一王子に取り入る大人達の、幼稚な暴言や皮肉が少女に深い傷を残すのだ。
膝を抱え、頭を下げ、視界を遮り、誰にも見られたくない泣き顔を隠す。

こんな姿をお父様とお母様に見せるわけにはいかない。

それが二人を罪悪感で苦しめるような行為にしかならないと、小さいながら自覚していた。
こんな冷戦の最中で、生んでしまった事を後悔されたくない。

だから、お父様のように暴言にもまるで屈しないような態度を取り、お母様のように凛とした表情でいなければ―――

だが、まだ身も心も幼い少女がその圧力に耐えられるほど、芯は強く無い。

その苦しみを心で押さえ込むように歯を食い縛った時だ―――


「―――ああ、こちらにいらしたのですね・・・」


いつもより優しい、男の声音。

やっぱり、迎えに来てくれた―――

懐かしい以上に嬉しさが舞い上がり、嬉しさ以上に悲しみが溢れ出る。
彼はいつも迎えに来てくれた。
町であろうと、森であろうと、まるで最初からその居場所を知っていたように来てくれる。
それを知っているから、少女はわざと外へ出て、彼が迎えに来てくれるのを待っていた。

彼が自分のためだけに来てくれるのが嬉しくて、しかし今は―――

少女はドームをくぐって入ってきた存在を気配で知りながらも、顔を上げる事はしない。
その王女様はその騎士が大好きだった。

それはお父様やお母様とは違う『好き』。

だからこそ、歪んだ顔を見られるのが嫌で、少女は返事もしない。
雨風がしのげるこの小さな青バラのドームで、少女を見下ろす視線を感じた。
沈黙が生じ、ただ雨が少女の代わりにしくしくと泣いている。
ふいに、今までに無いぐらい優しさを感じる低い声音が囁いた。


「『   』様―――」


王女の名前―――赤を愛しむように、その『名前』を呼ばれた瞬間、少女は弾けたように顔を上げた。
武装を解いた、それでも騎士らしい格好をしたその男―――アーロンが見下ろしている。
精悍な顔つきはいつも硬い印象しかないのにも関わらず、今ではこんなにも穏やかに微笑んでいた。
濡れた黒髪は萎れ、水を含んだ黒の軍服から水滴が零れ落ちている。
それはアーロンが少女を探し回っていた何よりもの証拠であり、それをみて少女は涙腺が緩むのを知った。

それが嬉しくて―――
それが悲しくて―――

ぽろぽろと涙が零れ、視界が水に浸かった様に揺らぐ。
アーロンは少し困ったように微笑みながらも、屈んで頭をその大きな手で撫でてくれる。


―――辛いね・・・


まるでそう言ってくれている様に、アーロンはいつだって微笑みかけてくれるのだ。
何も言ってくれなくても、ただアーロンの無言の優しさが心に沁みて、喉元が苦しくなった。
ただ誰もが口にしないその『名前』―――その言葉をアーロンが言ってくれれば、魔法のように好きになる。



**********



「―――ダルク様。あのような田舎娘を思わせる王女など、手篭めにする事すら我々の評価を悪化させる可能性も危惧致しかねます。オリオン王のそのような物言い、もはや侮辱したも同然!!・・・しかしながらキング<アルハーツ王>のご命令は絶対。致し方ありませぬ。せめて同盟だけでも結ぶに留まり、多少のお叱りを受けるかと存じますが手を引いた方がよろしいかと。いくら目も眩むほどの美貌だとはいえ、あのように無礼を振舞う王女では、あなたの隣に座る資格どころか我らアルハーツの受け皿として適切ではございません。他の国々にもきっとダルク様のお気に召される麗しく王女様がいらっしゃるはずです」

思い出したように白い眉を寄せて、周りの者に声を聞こえない程度に声を抑え、先日将校の座についた老人・ドローはダルクに囁く。
廊下を優雅に歩くその姿に誰もが頭を下げ、圧倒されたようにその場は静まり返っていた。
こつこつと歩く音だけが広々とした廊下に響く中、ふいに、ダルクは立ち止まる。


「―――どうされました?」
「・・・悪いが、先に客間へ戻っていてくれ」

少し疲れきった彼の声は、何時になく弱弱しく。
けれど、例えその変化に気づこうともそれを気に掛けるような事を誰もしない。




誰もしてくれない。




それが当たり前とは、なんとも空しいだなんて間違っても思わないのだろう。




**********



巡回役の兵士は二人組みとなって、城内の見張りを受け持っている。
それも一定の時間おきである事は、この城を我が家とし始めてから今更だ。
既にそれも体内時計で感知出来るまでに慣れ始めている少女は、人影がいなくなると身を隠していた柱から顔を覗かせた。
アーロンに抱かれて部屋へ戻れば、草臥れたような老人<先生>と、最大の天敵とも言える女官長がご立腹の様子で彼女を待ち伏せていたのだ。
本来ならば教養の猛特訓をこなしている頃合。たとえ客人が訪問しようとも、それに変わりは無く。
そのままアーロンとは(強制的)に別れ、少女はそれこそ今までの扱きがお遊びだったと思うほど身を絞られ、ようやく得られた休憩時間を見計らって脱出して来たのである。

己が西の国に嫁ぐのは本当なのか。
父は何と言っているのか。
あの王子<ダルク>はいつ帰るのか。



『ねぇ、どうなの?』



そう可愛らしく首を傾げて尋ねても、答えは『存じませぬ』の一点張り。
もはや尋ねる事も諦めてしまい、ならばやる事は一つだろう。

(私は本当に嫁がなければいけないの・・・?そんなのは嫌!!)

誰にも見つからないよう、床を叩く靴を両手に、彼女は父<レドリスト王>がいるであろう執務室へ向かう。
十字路のような廊下、ここを左に曲がれば目的地だ。
誰かに見つかるまいと必死な彼女は、迷いも無く走り出したその刹那だった。

「・・・っ!!」

痛いとは違う。しかし逆らえないような反発に、少女の体は難なく後ろに投げ出される。
しりもちをついた衝撃で、舌を噛んでしまったではないか。
恐らく悲鳴を押し殺せたのは、誰にも見つかりたくないという信念の賜物だろう。

「―――うー・・・」

手に持っていた靴がどこかへ飛んでいった。ああ、それよりも一体何故己は地面に転がっているのだろう。
状況も掴めないまま、少女は天井を仰いだ状態から鬱陶しいものでも見るような顔つきで起き上がった途端、文字通り硬直した。


本当に、文字通り。


「・・・」
「・・・」

その人の頭からコトリと、少女が掴んでいたはずの靴が転がった。
偶然とは何と気まぐれでお約束なのだろうか。
人生最も会いたく無いと思っていた人と出会ってしまったじゃないか。




**********




「・・・」
「・・・」

「・・・」
「・・・ぅ・・・」

「・・・」
「・・・その・・・・」

「・・・」
「・・・。・・・」

少女は疲れたようにため息を零した。
堅いヒールが装備された靴なんぞを頭にもらった者の心情はどうやらご立腹のようで。
相手も己と同じように反対側へ投げ飛ばされてはいたが、今は落ち着きを払って埃を払い落とし、休息用のバルコニーに設置された椅子に座っていた。
しかし少女は傍に置かれた椅子に座るわけでもなく、何時人が来るのではないかとひやひやしながら、一息つく相手の顔色を伺った―――ら、睨まれた。
翡翠の瞳が恨むように少女を見上げる。無言の空気に堪えられず、少女は地団駄を踏んだ。

「だって・・・!!」

ここはやはり加害者になってしまった己が謝る立場なのだろう。
けれど素直に謝ろうと思えるほどこの少女が素直である訳でも無く。
そう―――ぶつかってしまったのは何を隠そう、あのダルクだったのだ。
例え謝っても許してくれる以前に、謝りたくない。

「だって!!突然飛び出てくるんですもの!!私は悪くないわ!!あなたも悪くないわ!!誰も悪くないのよ、今回は!!」
「・・・」
「あそこ視界が悪くて嫌になるわね!!きっと以前にも同じような事が起こったに違いないわよ!!タイミングも悪かったのね!!」
「・・・」
「私の不注意も少しあっただろうし、今度から気をつけるわ!!」
「・・・」

皮肉口を叩く彼が今も尚口を閉ざしているのが更に心地悪く、少女はうな垂れた。



「・・・。・・・ごめんなさい・・・」
「―――最初からそうおっしゃっていただきたいものですね・・・」

ようやくダルクはため息を零しながら、それでも非難するように少女を睨んだ。
恐る恐る見れば、ヒールが突き刺さるようにぶつかった衝撃で、平べったいはずの額が不自然な朱色に侵食されている。

「大変だわ!!」

少女は血相を変えた。
雪と同じ白い肌。少し切れて、血が滲んでいるではないか!!
咄嗟にドレスの内装に入れた手拭を取り出すと、問答無用でそれをダルクに押し付けた。

「血が出てるわ・・・!!止血しなきゃ!!」
「・・・。そんな大げさですよ。日常茶飯事、訓練で怪我を負っている身です。そのように手を煩わせるご心配には及びません」
「そうはいかないわ!!」

それを突っぱねようとするのを、少女は強引に押さえつけた。
大声に驚いたのか、それとも心配するその少女の態度に驚いたのか。
ダルクは翡翠の瞳を見開かせて、少女を凝視する。
しかしそれは迷惑そうにすぐ細まり、再びあのため息を零したのだ。

「それよりも早く靴をお履きになられた方がよろしいですよ。怪我でもされたら元も個もないでしょうに」


―――そもそも何故あなたは裸足なのですか・・・?


ため息を零した苦言に、ようやく合点の言った少女は同時に重要な事を思い出し、ダルクに問い正すように口を開いた瞬間だ。
それを見計らったように、ダルクはそれに答えた。

「同盟は破棄―――とまではいきませんが、どうやら我々の婚約は白紙に戻りそうですよ。あなたの父君が大反対されているご様子でしたからね。多少異存はありますが、今回は仕方がないでしょう・・・」
「じゃぁ、私は嫁ぐ必要が無いの?本当に?」
「・・・同じ事を二度言わせないで下さい・・・」

少女の顔は見る見るうちに笑顔へと変わる。
安堵したように、しかしこの王子の前ではそんな態度を見せるのは場違いだと押し隠すが、それが上手くいかず。

「あなたは顔に出てしまう性質のようですね・・・」

疲れたように再びため息を零す。いつの間にか少女が渡した手拭で額を抑え、ゆったりと椅子に寄り掛かった仕草はどこか気が抜けてしまった様子だ。
優雅に脚を組み、難しそうに顔を顰めている。

「あなたは国の王女なのでしょう?我々の国に嫁がずとも何時の日か同じような縁談が来るでしょうに。それよりも私の慈悲に甘えて受け入れるべきだったと思うんですがね・・・。一体何が不服だったとおっしゃるのですか?」
「まぁ・・・!!愛の無い結婚?そんなのごめんよ。道具として扱われる人生だなんて何の面白みもないじゃない。―――それよりも私ならこの国を治めてみたいわ。王になるの。そう考えれば色んな可能性が広がって楽しいはずだもの」
「そんな事例、聞いた事がありませんよ・・・。女性が納める国?それこそ嘗めて掛かられ、袋叩きに合った後に滅びるのが落ちでしょうに・・・」
「あなた私の可能性をとことん否定していくわね・・・。だから嫌なのよ・・・夢が無いってよく言われない?」
「現実主義者とおっしゃって下さい。あなたのように妄想で生きる暇などこの私には無いのです。それよりももう少し現実を見ていただくよう進言しますよ。―――聞いた話では『魔王になりたい』だなんて戯言をおっしゃっているそうで・・・?」

少し小ばかにしたように鼻先で笑い飛ばすダルクに、少女は恥ずかしいモノでも見られたように顔を赤らめた。

「あなたに理解されようだなんて思わないわ。理解されたくも無い」

傷つくだけは嫌。そんな少女の心は容易に空気を重くする呪文を―――風刺を口にしてしまう。
それを証拠に、ダルクの顔から親しみを込めたような笑みは消えてしまった。

「―――どんなに無理をしようと、あなたの妄想は理解出来そうに無いですよ。むろん私とて、あなたのように棘の多い花など理解したくも無い」

きりっと、強く奥歯を噛んだ。ああ言えばこうだ。
しかしどこか己とよく似ていると、心の隅で考えてそれを真っ向から否定した。
誰がこんな嫌味な奴とそっくりだと認めるものか―――と。
沈黙は重く、時間は動くのが遅くなってしまったようだ。
少女はこのまま失礼してしまおうとしたその時―――ふいに、ダルクは額を押さえていた手拭を降ろし、少女を見上げた。
翡翠の瞳が、光を吸い込んで宝石のように見える。

「―――これは正式に婚姻破棄となって良かったのかもしれませんね。あなたが私の傍にいるだけで、全身を棘で覆うあなたに負傷させられてしまいそうだ・・・」

はたりと、少女はその意味を明確に掴み取ろうと思案する。
それはつまり、『傷ついた』と―――そう言っているのだろうか?
そう解釈した途端、今までに無い反応に少女は狼狽した。
突っぱねるならば最後まで突っぱねて欲しいのに。そうすればこんな罪悪を感じる事も無いはずだ。
何と対応すれば分らず―――相手を負かせる言葉は容易に出てくるというのに、それ以外が上手く告げられない。

「・・・。額は、まだ痛むのかしら・・・?」

いつの間にか、痛々しいほど額の腫れは収まりつつあるようで、赤みも少なからず弱まったようにも思える。
そう気遣ったはずなのに、ふいに相手は興味を失せたような眼で少女を笑った。


「―――これは訴訟でも起こしてみましょうかね?・・・もし私がそんな事をしたら、あなたならどうします?ねぇ―――赤王女<レッドプリンセス>」





**********



「――― 一瞬でも・・・!!ほんの一瞬でも悪い事をしたと思った私が馬鹿だったのよ!!ええ、大馬鹿だったに違いないわ!!なんて嫌味な方!!減らず口!!ああ・・・!!私が最も嫌いなあの代名<レッドプリンセス>をわざと言って挑発してきたのよ・・・!!この喧嘩を買わずにいつ買うと言うの!?殴っても殴り足らないわ・・・!!」

涙を目じりに浮かべ、訓練場に訪れた少女に、誰もが苦笑気味にアーロンの顔色を伺っていた。
彼らにとっては指導官であるアーロンがいないため―――いやそれ以上に、主の訪問に誰もが狼狽した様子を見せていた。
もしくは幼くとも、将来その麗しの蕾を開花すれば夢うつつにため息を零してしまいそうなその美貌に心を和ませる者もいる。
さながら小動物を見ているかのように。
日々むさ苦しい男達に囲まれた者にとっては、安息のひと時であった。
アーロンは疲労感からかため息をつき、汗ばんだ体から抱きついてきた少女を引き剥がす。

「―――王女・・・」

「これがバカにしていると考える以外無いわっ!屈辱よ!人生最大の屈辱よ!本当に結婚が破棄になって良かったわ!!心底安心よ・・・!!」

悔しそうにそう叫び、アーロンの鎧をがんがんと何度も叩く。
もちろん感情的になった時ほどその力も凄まじく、アーロンの鎧は見事凹みが生じていた。

―――今度は壊れないように金製にでもしてみようか・・・

アーロンは何度めとも知れない新品の買い替えに、内心でため息を再度吐き出す。

「あの人やっぱり好きになれないわっ!近寄りたくも無いわ!!」
「―――少し気が動転なさっているようですね。ここは気を静めるためにもお茶を―――よろしければ先日いただいたハーブティーがございます。侍女にでもお頼みし、お作りしていただきましょうか・・・」
「アーロン!!お茶で気が沈むほど穏やかじゃない気分なのよ・・・!!レッドプリンセス<魔物姫>だなんて―――・・・!!許せない・・・!!許してたまるもんですか!!ようやく誰も口にしなくなったと安心してたらまたこれよ!!」

わーと、少女は声を上げて泣き出す。
それを宥める様にその背中を優しく撫でてやり、ふいに近づいてきた存在に目を丸くした。

「―――それはこちらの台詞でしょう。そのヒールはあなたが握れば凶器となるようですね。危うく私はあなたに殺されるかと本気で危惧しましたが・・・?」

激昂を押さえ込む事に失敗した、少年の低く呻くような声に、少女の鳴き声がぴたりと止んだ。
立ち込める重い雰囲気。訓練も試合も出来ない現状に、他の騎士達は状況の場を読んで、剣を収めると膝を付いて頭を下げた。
ただ一人取り残されたような心地であるアーロンは縋る王女が障害となり、敬礼も出来ないまま首を下げて敬意を見せる。
板ばさみの状況に嘆息しつつ、小さい二人を見下ろせば、すでにそこは火花の飛ばし合いという激戦区になっていた。
少女は敵意を込めてダルクを睨み、相手もまた冷え冷えとした眼差しで少女を見つめている。
ダルクはわざと大きく嘆息し、小ばかにしたように微笑みかけた。
その両手には女性物の靴を握り締め―――しかし何故ダルクがそれを掴んでいるのだろうか?
先ほどのダルクの言葉と現状を把握すれば容易に今現在、主であるこの少女が裸足である事は想像できる。

しかし―――

(何故裸足でいらしたのか・・・)

来る途中で何かの拍子に怪我でもされたらそれこそ一大事だ。

「女性が泣き顔を公共の場で見せるなど見苦しいにもほどがありますよ。―――それよりも、お届けものです。小石でも踏んで怪我をされたら、あなたのお国の侍女殿がお困りになるのでは・・・?」

ゆったりと腰を屈み、その場に両足の靴を置く。
ころりと、ヒールの高いその靴は転がった。しかし何故靴に皹が入っているのか?
よく見れば、ダルクの頬が少し赤みがかっているようにも見える。それは紅潮などという生易しいものでは無い。

(まさか・・・!!)

アーロンの中で最悪のシナリオが瞬時にして出来上がった。

「ダルク王子・・・。その頬は一体どうされたのでしょうか?私の目には腫れ上がっているように見えるのですが・・・?」
「―――ああ。詳しくはそこにいらっしゃるあなたのプリンセスにでもお尋ねになって下さい。よもや、今私が置いたこの靴で殴られたなど―――私の口からではとてもとてもお話出来そうにありませんので・・・」

嫌味を多く含めて、ダルクはいたって冷静にそう告げた。
誰もがその言葉に血相を変え、そんな失態を犯してしまった王女に疑心が向く。

「王女・・・それは真で・・・?」
「・・・」

アーロンの、優しげな問いかけに、気まずさを感じたのか―――その事実を肯定するように少女は顔を俯かせた。
美の女神が嫉妬してしまいそうなその美貌も今は曇りがかって、柳眉が下がっている。
不服を抱えているのか、反論の言葉も無いのか。そのふっくらとした赤い唇は頑なに一線を描いたまま言葉を紡ごうとせず、ただひたすら縋るようにアーロンにしがみ付いていた。
どうやら真らしい。

「誰か―――侍女を呼んでくれ。冷水と頬を冷やす布を・・・」
「御意」

アーロンの判断に、一人の騎士が動き出した。一礼をした後、背中を見せないように、退散していく。
漆黒の瞳はその事実を真剣に捉えていて、ただ事では無い―――むしろ大事であると物語っていた。
縋りつく少女を柔らかく引き剥がしてから、完全に激昂しているダルクの元へ膝を折る。

「・・・」
「―――ダルク王子。あなた様のお怒りは重々承知しております。私がどんな罰でもお受けいたしましょう」
「アーロン・・・!!待って!!」

少女がした事はどう考えても正しいとは言えず。
もはや殴ったとなればどんな理由であれ、言い訳は出来ない。
アーロンがその責任を負おうとしている事に、少女は血相を変えた。

―――アーロンは悪くないんだから!!

「・・・。頬を、殴った事は謝るわ・・・!!けれど、私がどれだけあの代名を嫌っているのか―――それぐらいは分って欲しいものよ・・・」
「―――いきなり頬を張り飛ばす方が何をおっしゃるかと思えば。謝罪をしたのか、言い訳をしたのか・・・私にはそれが分りません」

彼は完全に怒りに染まっていた。
射られれば、それだけで凍り付いてしまいそうな翡翠は余裕を失い、自我すらも無い様子だ。

「この国に来てから、私の心が休まる時が無い。私はこれでも寛大に対応してきたつもりです。それがこの国とくればどこまでも私を馬鹿にしてくれる。国王も国王だが、王女も王女だ。これでは有能な部下達も大層苦労している事だろうに」
「―――頼られる事は我々にとって光栄の極み。手となり足となる事は我々の生き甲斐である事はもはやお分かりいただけない事でしょう」
「ふん。王女の尻拭いが。確かにたとえ私でも虚けな主のために下げる頭なんざ持てそうに無い。唯一分ると言えば、主の身勝手さにお前が最も苦労しているという事だ。飽きれすら上回る同情が芽生えたぞ」
「そんな風に何でも見下して、悪くおっしゃるあなたにも非があると思うわ・・・!!」

アーロンほど誇り高い騎士はいないというのに!!

獣のように唸りを上げそうな少女の登場に、ダルクの微笑は深くなった。
氷の様に凍てつき、到底これを溶かせられるようには思えない。

「おやおや。開き直りですか?なんと横暴的な王女様なんでしょう。優雅という言葉の欠片も見当たりませんね」
「悪かったわね!!」
「・・・はぁ・・・。異国の噂は一見しなければ信用性の欠片もないようだ。それはそれはどんな麗しき姫かと私は楽しみにしていたのですが・・・幻滅ですよ。期待外れもいいところだ。白状しますとそれがあなたに対する第一印象ですよ」

少女の握り拳はより一層、白く染まり、体は細かに震え、羞恥に顔を真っ赤にしていた。
自分<少女>が一度口を開けば、親しい者達が見縊られる事が耐えられず、故に何も言えなくなっているのだ。

「他の国々の姫達はあなたよりは優雅で気優しい、そして何よりも上品さがあり、気配りもお上手でしたよ。これほど素晴らしいお国なのに、あなたのような方を国の華にして、レドリストの方々はお困りになるのでは・・・?少しはあなたの視点を国外へ向けて、社交界などで一から勉強する事を勧奨しましょう。もはや町娘・・・いや、村娘だと言っても納得してしまう所ですよ」
「・・・」
「―――少なくとも魔物の子と呼ばれてしまうのは、あなたの父君のせいだけでは無いのだと自覚なさって下さい。たかが皮肉を込めた異名<レッド・プリンセス>如きで手を上げるなど、王族として失格です」

レッド・プリンセス<魔物姫>。その異名は彼女にとって悲しく、寂しく、忌々しいとさえ思える記憶を象ったものだ。
それは体が恐怖で震え、拒絶して吐き気を促すほど。弱っている時など高熱を出して床に伏せてしまうほど嫌っているなど、外部者であるダルクには分かるはずも無い。
堪えきれない津波のような涙が込み上げて、それが零れ落ちようとした、その時だった。



「―――お言葉ですが・・・」



ふいに、アーロンの険しい声が入ってきた。
少女は涙をどうにか飲み込み、ダルクもまたアーロンの一声に柳眉を寄せる。

「それは聞き捨てならぬお話です。我々<レドリスト>は自尊心の高い人種だとはご存知で・・・?私とてそれは例外ではございません。そして彼女は・・・王女様は我が国が誇る薔薇。たとえ一国の王子と言えど―――誇りを踏みにじることは私が許しません。彼女を悲しませるような事をされたならば―――例えお相手が王族であろうと、この私が身を持って制裁を下す事でしょう。確かに噂のような麗しさが無いとおっしゃるようですが、我らにとってはまさに一厘の希望ににしてこの国最高の王女様<プリンセス>でございます」
「―――では、お前は私が間違った事を言っているとでもいうのか?」
「滅相もございません。ダルク王子。あなたのおっしゃる事が間違いだと反論している訳ではございません。・・・事実、我らの薔薇はまだ幼く、棘が多いと感受される事と思います。ですが―――」

何事にも寛容な態度を見せる漆黒の騎士が、決してそれだけは譲れないと真っ直ぐダルクを見上げる。
己の存在を誇りに思う―――その言葉を肯定するように、鎧に描かれた薔薇の紋章に片手を置くと、相手が長上である事を忘れたエル・エデル<背徳の騎士>の本性を現した。

「ですが―――献身的だと賛嘆されるアルハーツの紳士が、例え国は違えどご婦人<レディ>をこのような公で軽んじるなど、騎士道精を隋にする私には理解しがたい事かと・・・」

虚をつかれ様に、余裕を無くしたようなダルクの顔は陰を潜ませる。

「アーロン・・・っ!」

時めく乙女のように少女が鼻に掛かった声を出せば、ダルクはますます不機嫌そうに陰を宿す。
無言のまま、アーロンとダルクのにらみ合いが続く。
それに終止符を打つように、ダルクは後姿を晒した。

「―――確かに。・・・私もアルハーツの紳士として愚行を犯してしまったようだ。謝罪の代わりに謹んで謹慎致しましょう」

ちょうどその時、慌てた様子で必要なものをそろえた侍女が二人が駆けつけ、手当てを施そうとしたのだが、ダルクはそれを制止して目線を後ろに向けたまま目を細めた。
その口元には悔しげに歯を食い縛っていた事は誰も知らない。



**********



「アーロン、やっぱりアーロンがいいわ。どう考えたって私にはアーロンが必要なのよ!!私が魔王になったら、是非その補佐を担ってもらいたいわ。二人でなら世界征服も夢じゃないと思うの。赤で埋め尽くしてやりましょう!!」
「―――・・・そのような野望はお早めにお捨てになって下さい。・・・私も王女様を侮辱される事を我慢できるほど鉄壁の心ではないんです。それよりも―――素手ならば兎も角、物で人を殴りつける事には関心致しませぬ。あれではどう弁解した所であなた様の非となってしまう事をお忘れなく」

その言葉に少しばかり口を尖らせ、目を細める。

「・・・反省しているわ。頭に血が上るとどうしようも出来なくて・・・。そうね、手を上げるのは良くないって分っているわ。けれど口より手の方が私の気持ちが的確で・・・でも、気をつけるわ」
「そういって頂き、このアーロンも嬉しゅうございます」

屈託の無い、温和な微笑みに王女は愛しさすら感じ、その首に両手を回して抱きついた。
その衝撃は軽く、それを抱きとめてアーロンは苦笑するのみ。彼女の愛情表現はどうも狼狽してしまう。

「アーロン!!ああ、アーロン!!やっぱり私アーロンがいいわ。アーロンは絶対に私の事愛してくれるもの・・・!!アーロンは、やっぱりアーロンは私では嫌なの?」
「滅相もございません。ただ恐れ多いのです。私は騎士、あなたは王女。―――そして犯罪的にまでの年齢差が―――・・・」
「100歳と75歳の違いなんて皺の数だけよっ!大丈夫、まだいけるわっ!」
「―――・・・王女様のお考えは大層深い事で・・・」

少しぞっとする話に花を咲かせる少女の一方で、アーロンは気が遠くなったように空を見上げた。

「それとも好きな人がいるの?―――まぁ当然よね。アーロンは人受けが良いから、女性には困らないのよね。毎日毎日女の人から告白されて・・・どうせ私なんてまだ子供よっ!美しく無いもんっ!」

ぷいっとそっぽを向いて、機嫌を損ねた少女にアーロンは破顔した。

「王女様に魅力が無いとは、このアーロンが言わせません。あなたを想う男の多さに、油断できない日々の方が多いぐらいなのですから・・・。恐らくそれも増えていく一方かと。これからも私が眼を光らせてあなた様をお守りする所存です」
「まぁアーロン!!私を喜ばせるのがお上手ね。アーロンがそう言ってくれるから嬉しいのよ」
「男はみな狼です。油断なさってはいけませんよ・・・」

ちらりと、アーロンは少女に気づかれないよう注意を周囲に巡らせた。
警告を兼ねて、まるで憧れの対象でも見るように、熱い眼でこちらを見つめるのはまだ幼い従僕。影からこちらを見つめる眼はまさしく初恋の色。
そして更に視線を巡らせれば年若い新人の見習い騎士。例え兜を被ろうと、彼女に対する痛いほどの視線はアーロンが容易に感知出来る。
鋭い眼光が戒めを備えて、彼らを射抜く。
彼女に色目を向ける全ての存在が、彼にとっては敵なのだ。
アーロンと視線がぶつかれば、まるで強者にでも出会ってしまったように身を縮こませるのを確認した後、再びアーロンは王女にしか見せないあの甘い顔でにっこりと微笑むのだった。

「―――さぁ王女。その靴も皹が入っては、その愛らしいお足が傷つかれてしまわれる。このアーロンの御身にお掴まり下さい。私が送り届けましょう」
「えっ!?」
「確か今は勉学のお時間だったはずでしたね。―――立派な女王陛下におなり下さる日は近いと、私は期待しておりますよ?」
「・・・」

有無を言わせないアーロンの爪はそう甘くはなかったのであった。



**********



未だに残る頬の痛み。

『大嫌いっ!』

涙を湛えて、頬を張り飛ばされた瞬間―――あの悲しそうな眼差しが印象に残る。

ダルクは疲労感にため息をつき、手すりに腕を組むような形で寄り掛かった。
彼女から手渡された手拭を片手に、頬を冷やすように当てる。
しかし、間違った事など言っていない。
彼女は王女としての自覚があまりにもなさ過ぎるのだ。
この国の内戦事情は聞いていたし、恋愛結婚によって結ばれた王女を不憫に思っていたのに、それは撤回すべき感情だったのかもしれない。
そもそも王族が恋愛結婚するという例は稀であり、何よりも国のためにいる王族が恋愛など自分勝手すぎると国民は思っている。
この国もそれは例外では無いはずで、だからこそ恋愛結婚によって不幸な目にあっただろうと勝手に予測していれば、あの王女は『愛』を求めていた。
それはダルクにとって許せないような感情であり、自分と同じだと思っていたのに何故こうも違うのかと考えれば、それはやはり幸運にも王族同士の結婚だったからだろう。

―――愛なんて馬鹿らしい・・・

「・・・本当に馬鹿らしい」

思わず砕けた私語が吐息と共に吐き出された時だった。

「―――海の青さと空の青さ。どの青さも美しいと思わないかしら・・・?」

涼やかな、そして今にも歌いだしそうなソプラノの声が静かに響いた。
反射的に隣を見れば、そこには同じく手すりに手を置く女性の横顔がある。
まるで神話に登場する妖精のように神出鬼没な彼女の姿に、気配すら感じられなかったダルクはただ驚くばかり。
殺気が無かったとはいえ、戦国で生きる者としては大きな失態である。

「あなた・・・は・・・」

太陽の光すら跳ね返しそうな金の髪。その青の目に濁りなど無く、白い肌は仄かに眩い印象があった。
白いワンピースに似たドレスを身に纏い、そのお腹は妊娠しているように―――いや、妊娠しているからこそ不自然なくらいふっくらと円形を描いている。
まるで女神でも見ているような心地に、自ずと顔が紅潮するのを知った。
何よりもその面影は見間違いようも無く、あの王女とよく似ている。

―――という事は・・・

「シャルロット王妃殿・・・っ!」

声が跳ね返ったのを自覚せぬまま、本能のように思わず頭を下げてしまった。
国王が妃を一人しか取っていないという奇怪な噂を聞いていたが、しかしその真意を知ったような気がする。

「あら?そんな気を使わないで。私はただあなたと楽しくお話がしたいだけよ?」

再び顔を上げれば、その顔が花を湛えるように綻んだ。

「お、恐れ多い事です」

立場はこちらの方が上のはずなのに、何故か体が恐縮してしまう。

―――これが噂の諸国の王達を魅了するオリオン国王の妃

シャルロット付きの支給人が下がっていくのを見ながら、その美しさに見惚れるようにダルクはシャルロットを凝視する。
その視線に気づかないのか、シャルロットはただ空を見上げた。

「―――あなたは、何故私の娘を婚約者に指名したのかしら?」

まさか、突然とそんな問いかけが来るとは思わなかったダルクは狼狽した様子を見せてから、少し視点を下ろした。
言葉を考えるような沈黙の後、彼は王子の地位に相応しい、堂々たる風で釈然と答える。

「・・・国の発展のためである事はあなた様もご存知なのでは?国と国を繋ぎ、少しでも戦争を減らすには和解が―――それも形にしたモノが必要です」
「ええ。そうね。昔私も思っていたわ。―――国の貢物になるのだと・・・。それが王女の役目ですものね」
「その通りです。それが我が国のためであり、あなたの国のためだと思うのですが・・・。しかしオリオン殿は王女殿の意思を尊重なさるそうで、残念ながら今回のお話も白紙に戻るようです。むろん苦言も多々ございますが、今回のところは同盟を再結束させ、親交を深められれば善しと心得ようと思います。王女殿もまだ幼い身。愛などという一時の迷妄も、ご成長と共に不要であるとご理解いただける事でしょう。またその時にでも、機会があれば再びこの話も持ち上がる事だと思います」
「―――まぁ。あなたは愛されなくてもいいとおっしゃるの?」
「・・・婚約に必要なのは、高貴なる血統と権力。愛が欲しいとおっしゃるならば、愛人でも囲えばよろしいです。愛などという瞑目など我々王族に必要ありません」
「―――恋愛結婚という形は、嫌なのかしら?」
「それは不要な事です。公的理由ではなく、ただ感情的な婚約など国民に対して、示しがつきません。ただでさえ父が身分が低かった母と結婚して呆れられているというのに・・・。今反感を買わないのは、父の勝ち戦と国民の生活を豊かにした結果があってこその事。それがなかったら、私はここに存在していない事でしょう。それを見て育った私が恋愛などという戯言を拒絶する理由もお分かり頂ける事かと」

それが王族の仕来り―――
王族は国と国を繋ぐ橋とならなければならない。
ダルクは重い荷物を背負ったような圧力を感じ、息苦しさに息を深くした。
真剣なダルクを他所に、シャルロットはどこまでも穏やかであり、それはまるでオリオンの微笑を見ているようで、ダルクはただ柳眉に皺を寄せる。

「王妃殿―――あなたも分ってくださるはずです。王女の存在意義を・・・」
「―――そうね。きっとあの子はいつか嫁ぐ身なのね。けれど、この国にはまだ継承者がいないの。あの子が望めば、この国の王となるわ」

継承者という立場でもあったと、今さらながらダルクは思い出し、しかし女性が王位に就くなど聞いたことが無い。
それを否定するよりも早く、シャルロットは言った。

「あの子は、『愛が無いぐらいなら国王になる』と私に言ったわ。・・・無理だと言われても、きっとやり遂げてしまうわね。だって私の娘<マイ・プリンセス>は『あの人』の子でもあるんですもの。―――そうなればあの子は他国へと継ぐ事は出来ないの」

シャルロットはゆっくりとダルクを見下ろし、穏やかな眼差しを向ける。
これは優しく丁寧に、王女を手に入れるのは難しいと言われている様な心地から、ダルクの表情が僅かに苦そうになった。

「―――よければゆっくりとこの国を鑑賞して行って下さいね?この国の赤バラは私達の自慢なんですよ」




推敲更新日

2007年10月05日

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