誇り高き王女の名は・・・<前編>








愛を囁く者の、なんといい加減な事か
出来もしない、幸せの未来を約束し、それが冷めていく様を目の辺りにしても人はそれを求め。
馬鹿らしい。なんて馬鹿らしいのだろう。
始まりに終わりがあるように、例え愛の物語が幸せでも、その続きは必ずしも幸せではないかもしれないと、何故それが分らぬのか。

己を裏切らない唯一のモノ。

それこそ財力と権力と、その血統だけである。

何故駆け引きにも似たその行為が好きなのか。
くだらない。実にくだらない・・・・。


けれど―――


そうつぶやきながらも、追いかけずにはいられない。
その視点の先にあったのは、愛くるしい一厘の華だった。
愛と情熱を纏うその赤はなんとも美しく。
しかし、棘が多くて、まだ蕾の小さなその花はまだ幼い。
その上気が強く、男勝りの負けず嫌い、その癖泣き虫で、甘えっ子。
麗しくも気高きその花の・・・



その名は―――・・・



**********



「あなたがこの国の王女と聞いて呆れますね。このような愚弄を平気で行えるとは・・・。いくら噂どおりのお転婆と言えど、度が過ぎた行為には感心しませんよ」

見下すような口調は年齢に似合わず、どこか大人びている。だが『らしさ』が伺える事が腹立たしい。
何よりも言葉が軽くて、その目線も上からモノを言われている様で正直、気に喰わない。

ああ。綺麗な人。なんて綺麗な人なのだろう。

最初に出会った時はもちろん乙女だもの―――

胸が時めかないはずが無い、整った容姿は貴婦人達に負けぬ肌の白さを持ち、しかし男児としての雰因気を漂わせていた。
少し暗めの黄金色は肩に掛かるほどの長さで、前髪と後髪を直線にぱっつりと切り、少し動いただけでも絹を垂らす様にさらりと流れたのを見て、綺麗な髪であると、素直に羨んだ。
服装はやはり清潔な白で統一され、金細工加工の施しをされた衣類はレドリスト王国の王服とは比べ物にならないぐらい立派なものだった。

しかし。

少女は居心地が悪そうに、顔をしかめた。
綺麗な翡翠の両目に射止められるのはどうも心地悪く、目が合えばそのまま凍り付いてしまいそうな覇気がある。
本当に彼は健全な子供なのだろうかと―――否。彼は王族である。
人を捨てる定めを背負う者として自覚があるだけで、何も特別ではないのだ。
その少年の背後―――わざと目を覆い隠す真似をし、呆れているという表現を明確に示す老人―――その存在にも気負けしそうで。
恐らく、その身なりがいい事。この少年の後ろを決して離れまいとしている様子から、きっと専属の護衛人なのだろうと思った。
それにしても、今日は天気が良い。中庭の廊下を支える柱から、僅かに太陽の光が差し込んでいる。
その日に当たるだけでもなんだか暑い。
今は確か青薔薇の開花時期だったか。そのため、青のバラが白い柵に囲まれて、国の青を強調するように散歩庭園が広がっていた。
ああ。今日は散歩日和だ。

「何かおっしゃられたらどうです?第一王女殿」

腰が砕けそうな艶やかな声。
高貴な印象とその優雅な態度は少なからず綺麗だと言えるのであろうが、少女にしてみれば嫉妬の対象にしかならない。

「どうされました?第一王女殿」

強気な声音に反発して、挑戦状を叩きつけるような冷めた声が出る。

「―――誰?」

獣で言うなれば唸り声を上げて警戒していると、その少年はご老体と顔を合わせ、呆れたように二人してため息を零した。
何故そんな疲れたような顔をする、何故!!

「これが噂の不吉な赤の目を持った赤王女(レッドプリンセス)殿ですか。噂通り鈍感にして少々頭の悪いお方のようですね―――・・・おや、これは失敬」

―――ピキリと、何かがひび割れる。

まるで詫びれも無いその顔と声音に、とりえあず少女にとって、少年の第一印象は最悪そのものである事は間違いなかった。



**********



赤いドラゴンと王女のお話―――

あれから10年の月日が経ったと言うのに、王権はオリオン・グローリーに移ったばかりだ。
本来ならば第一王子にその王権は受け継がれるのが順当というもの。しかし、第一王子は奇想天外にも身分違いの支給人女性と共に逃亡を働き、赫々云々その王権は移った。
―――先代の王が退位するまでの間、第一王子と第二王子の王権を巡る冷戦がきっかけで、城内部ではだいぶぴりぴりとした空気が漂っていたが、今ではそれは解消されたのである。
さてさて、赤が嫌われていたこの王国であるが、月日の経過と国王夫妻の努力により、その傾向も徐々に薄れ始めていた。
それこそ最初は恨み妬みから赤は否定されてきたが、隣国から嫁いできた王女の言葉に反論できるものがいないという理由と、彼女を敵対できるほど肝が据わっている人はいなかったため徐々にその傾向が変わったわけだ。

―――それでも

それでもここに一人。
その過去の傷がトラウマ<恐怖>となった少女がいた。
全てはこの『名前』に関係しており、名前が『赤で不吉』だと、冷戦中は第一王子を支持する者達に散々邪険に扱われたものだ。



悪魔の子は悪魔だと。



赤は異形の者を指し示す。人の皮を被った化け物なのだと、嘗てのオリオン王子を叩く勇気も無い半端な輩は、事もあろうに幼い彼女を突き合ったのである。
むろん彼女の傍を常に離れなかった『エル・エデル』<背徳の騎士>がそれを黙って、拳を握り締めるに留まる訳がなく・・・。
しかしその度に、立ちはだかる壁を何重にも破壊尽くした彼女は、幼き身ながらついには達観し、結果的に度肝をつく様な『ある事』を実行する事となった。




なんと、『己の名を封じてしまった』のだ。




侍女の一切に、兵や騎士達の誰にも己の名を呼ぶ事を禁じたのだった。
その身内すら、公共の場で呼ぶ事を制止させたのだから、よほど自棄となっているのかもしれない。
城内には、この少女の真名すら知らぬ者もいるという始末だったが、多くの代名を持つ彼女との交流になんら支障は無く、もはやこれが順当となってしまっていた。
故に、彼女の名前を呼ぶ権利を与えられた者―――それはあまりにも寡少で。
それこそ、まだ幼くとも気高く、屹然な彼女から与えられる信頼の証だと、仕える者全てがそれを求めた。
しかし、その気性こそ野獣の王の様に気高い、至高の類。彼女がそう簡単に微笑むことは無く、むしろ棘を抱いた薔薇のような姫に育ってしまったのだ。
その上、彼女の内に秘めている『野望』というのも論外。
これを人に聞かれれば、この娘の頭は大丈夫なのかと、飽きれ返るよりもむしろ懸念してしまうほど。とにかく、そんな空想に近いものだった。





この御身―――魔王となる!!





魔王になって、この国に赤で埋め尽くし、赤を称え、赤を基本色にしてやる。
―――魔王になって、世界征服してやるんだ!!




握り拳を作り、それを天高く。
右手に正義の魔王が主人公という、少し変わった童話本を握り締め。
少女はそう誓うのだ。

「・・・。とりあえず魔王になったら最初にあの人ぶっ飛ばすわ!!」
「左様で」
「そもそも赤の何がいけないのっ!?いい色じゃない!素敵で情熱的な色よね!青の方がよっぽど冷たくて不吉な色よ!」
「左様で」
「アーロンは赤と青どっちが好き?赤よね?絶対赤よね?どう考えたって赤だわ!例え天と地がひっくり返っても私はあなたが赤を選ぶと信じているわ!」
「・・・左様で」
「アーロンは絶対に私の味方なんだからっ!だってアーロンは『マイ・エデル』<私だけの騎士>なのよ!!私とずっとずっと一緒にいるのだから、この私の怒りが分るでしょ!?」
「―――・・・左様で」

鎧にしがみ付く少女を見下ろし、少しばかり困ったように、慰めを込めて男は苦笑いを零した。
水と華の都―――レドリスト王国は平和すぎる平和をかみ締める毎日に、一部の兵を抜かしたほとんどが、気を緩ませたばかりに堕落する始末である。
将軍の地位につく者こそ、あめと鞭で―――いや、もはや鞭しか振り回さないほどまでにその根性を叩き直している一人が『エル・エデル』<背徳の騎士>と呼ばれるこの男―――アーロンだった。
その雰囲気はまさに威徳に満ち、片目を失った古傷を第一印象にさせないような力強い黒目。
綺麗に短く散髪された黒髪は整えられ、引き締まった肉体は今や黒銀の鎧で覆われて見ることは敵わない。

―――ドラゴンを退治した国の英雄

隣国ではそう呼ばれ、子供へ送る英雄物語として語られているらしい。
現在このレドリストに所属を置き、家柄ではなく剣腕の才能が認められただけでなく、現在国王の肩書きもあって政治に口が出せるほどの特権を手に入れた男である。
一段と逞しくなったような顔つきは少し疲れて見え、それでも鋭い眼光は若々しさを保っていた。
この少女の全面的な教育を管理し、隙一つ与えない完璧の護衛係としてもオリオンから高い支持を得ている。

最初こそ、その存在が周りから疎ましがられていたが、実力が開花した今―――オリオン同様アーロンに不服をいう者は、いるとしても言えない。

しかしそこまで辿り着くまで大よそ10年の月日が掛かり、今は本当にようやく暗殺者の影がいなくなったぐらいだ。
それでも、頭を抱えたくなるような問題はまだ大積みだった。

「そうよっ!そもそもおかしいわっ!お父様が即位なさってから周りの態度が急変よ?今まで随分と酷い扱いを受けていたのに、今更頭を下げないで欲しいものだわ!!内心が知れたもんじゃないもの!!」
「・・・左様で」
「私は絶対に許さないわ!!散々苛めておいて今更無いわよ!!アーロンだって何度危険な目にあったか覚えているでしょ?―――ああ、思い出しただけで腹が立ってきた・・・!!」

アーロンは相変わらず受け流すように同意する。

おかしいとは思わないか―――?

今まで自分達の事など眼中にも無かった支給人達が、我先にと構おうとするのだから。
まだ王権は祖父に当たる人物が握っていて頃、その少女は正式に第一王女として認知はされていなかった。
王権を握る後継者以外の親類は、一切政治に関与する事を許されず、宮廷のみでの箱庭の生活を強いられていたのだ。
その頃の少女は、ただ静かに口を噤むだけで、決して今のように陰口や罵声には抗う意思は示さなかった。
むろんその間、残酷な言葉の凶器によって彼女の心は蝕まれていくように萎え始め、ついには心を閉ざして口を閉ざしてしまった事もあっては、黙っていない人物が激昂に耐え切れず、立ち上がった訳である。
その環境の残忍さを知っていたのであろう、現レドリスト王<オリオン>は目に見えない魔の手から逃すかのように、王都から少し離れた屋敷での暮らしをさせてくれたのだ。
どうしても宮廷に出向かなければならない際には『エル・エデル』<背徳の騎士>が常に長剣を片手に周りへ威圧をかけ、母であるシャルロットが小柄な背中に庇って守ってくれた。
お陰で少女は世界の広さを知り、多くの者達との関わりと経験によって、人情というものを学ぶ事が出来た故―――幸か不幸か。
第一王子の逃亡劇と共に、家族もろとも彼女は宮廷に強制送還され、例え精神的に追い詰められようとも現在進行形で健気にやって来れたのである。

『まぁ、なんて不吉で忌々しい瞳なのでしょう!!こちらを睨みつけて・・・まぁ、はしたない事。目つきも悪いし、やはり噂通り魔物の子なのでは?』
「まさしく情熱の赤。愛の赤ですわね!ルビーに勝る美しさです」

『汚らわしい・・・!!同じ場所で呼吸をしていると思うと吐き気がしますわ』
「王女様のお隣で、こうやってお世話をさせていただける事、神の前で感謝したいぐらいです」



何だこの前後の違い。
父親から受け継いだこの赤い目が汚らわしいと―――そう言っていた侍女達の一変した態度が気に入らない。

前など本人を目の前に皮肉口を叩いていたのに。

「腹立たしい・・・!!前までは城下町にこっそり遊びに行っても誰も咎めなかったのにっ!服だって『庶民服の方がお似合いよ』だなんて言っていたのよっ!?それが今では聞いてて耳を塞ぎたくなる様なゴマすりばっか・・・!!心にも無い事だと思わない?未だ笑顔で対応している私はむしろ立派だわ!!」
「仰るとおり す、王女様。あなた様は神の気まぐれな運命の元・・・突然と王女<プリンセス>としての奇数な宿命を背負いになられました。ご決心される機会も時間も与えられないままこの様な箱庭に放り投げられたのですから、今だ戸惑っていらっしゃるのも無理はございません。それでも、王女としてあるべき姿を懸命にご思慮なさり、真摯に振舞おうと意気込んでいらっしゃる事を私は存じております」
「そ、そう・・・かしら?」
「―――ですが・・・『彼』に対するあの対応は正直いただけないかと・・・」

聊か照れを含んだ頬を赤くしていた少女は「だって・・・」と言葉を濁らせ、甘えるようにアーロンに引っ付いたまま、枯れた花のように顔を曇らせて視線を落とした。



**********



『赤王女』<レッド・プリンセス>と呼ばれた瞬間―――それは少女にとってはタブー<禁句>を言われたようなものだった。
かちんと頭にきて、思わず睨みつけるようにその少年を見上げれば、相手もまたこちらの態度が急変した事に、喧嘩を買ったような目つきで微笑んできた。

勝てるものなら勝って見ろ。

まるでそう言っている様で。

「―――何か?王女殿。私はあくまで正直にありのままを言ったまでですが・・・ドロー将校、私が言った事は間違っていたか?」

問いかけに、胸を張るように少年の背後に佇んでいた老体―――ドローは答えた。

「―――いいえ。まったくもってその通りでございます」

王女に対しても決して容赦の無い言葉。
初対面なのに何故そんな事を言われなくてはいけない?
幅広い外が筒抜けとなった廊下で、一対ニでの対面に区切りをつけるように、ぱたぱたと珍しく走ってくる複数の気配が背後から感じ、少女は振り返る。

「王女様っ!またそのような格好で・・・っ!」
「は、はやく王女様を衣服室へお連れして!」

今にも倒れそうな侍女達の甲高い悲鳴の原因は間違いなく一人の少女にあった。
―――というのも、その格好はまるで下町娘のようなシンプルな赤と白のワンピースを重ね着し、異端な雰囲気を纏っている。
その頭には布が眩いばかりの長い金髪を邪魔にならないようにくくりつけ、耳の後ろに髪を束ねていた。
もちろん眉間に深い皺を寄せ、顔を真っ赤にしている事から彼女が不機嫌である様は分りやすく。
それでも母親と父親の天性なる美を受け継いだこの王女はそんな顔すら美しいと思わせる。
少女の手を力のまま引っ張るその強制に、少女は突っぱねるように否定した。

「私はこのままでいいわっ!一体何故着替えなければならないの!?」
「相手は西大国の第一王子―――『ダルク』様であらせられます!そんな方の前でそのような格好、たとえ王女様といえど許されませんっ!」

顔を真っ赤にさせて、手を引く侍女が小じわの入った顔を歪ませる。
その言葉に、少女は「えっ?」と声も出す事無く息を呑んだ。

―――西の王国

それはまだ幼く、勉学を苦手とする少女とて、知っているほどの強国だ。
西の王国を敵に回せば、この小国<レドリスト>は間違いなく滅んでしまうと―――そう予想出来るほど有名な国である。
長槍を主戦力とし、遠距離戦とも近距離戦とも違う。むしろ両方に対応出来る戦法を持ち、勢力を伸ばしていた。
数多くの国が存在する中、西の王国は現在最も同盟を結んでおきたいと数えられる国なのである。
しかし、西の大国からこのレドリストに辿り着くまで、優に一ヶ月の航海を強いられた。
その上、彼らがこの国に辿り着くためには、レドリストを縄張りとした人魚達の目を盗んで来るか、貢物で機嫌を伺い平伏でひそかに訪問するか――― それだけ大変な海域を通らなければならなかったというのに、これはどういうことなのか。

「―――そんな遠くの国の人が何で・・・ここに・・・?」

信じられない。そんな眼で西の国の王子を凝視すれば、それが快感とばかりに笑みを深くする。
やはり田舎の者かと、そんな冷笑すら交えて、だ。

「海を横断するのはあまりにも危険が伴うというもの。我々は同じ青でも天空を泳いで来たのだとおっしゃれば、ご理解いただけるでしょうか?」
「・・・。空・・・?」
「―――空船<ブルー・ウィンズ>。我が国から貴女の国まで最短の一レルド<一週間>。大砲も搭載し、新大陸を発見したのがつい最近の事だったでしょうか。我が国で開発された世界初の空を浮かぶ船ですよ」
「あなた、空を飛んで来たとおっしゃるの!?」

思わず立ち止まってしまった少女に、引き綱は歩くよう強く引っ張られ。

「痛いわっ!」

悲鳴ではなく憤慨した様子で抵抗すると、背後からはやはり嘆息する気配―――

「王女とあろう者が・・・客人を前にそんな醜態を晒すとは・・・」

ダルクの呆れきったその声に、少女は悔しげに唇をかみ締めた。
拳を白くなるまで握り締め、瞳を揺ら揺らと大きく揺らす。

「申し訳ありません・・・っ!お見苦しい様をお見せしてしまった事を深くお詫び申し上げます!!すぐそれ相当の格好に着替えていただくので・・・っ!」

上官の前で胡麻を擂るように、頭を下げ続ける侍女の一人。
他の侍女達も少女を囲んだまま、その頭を下げている。
少女の手を握っていた侍女もまた、その手を離して同じようにしていた。

―――まるで悪い事をしたみたい・・・

少女は王女という立場を心底呪った。
もしもそれさえ頭になかったならば、拳を振り上げて殴りかかっていたに違いない。
それを抑えられるのはただ、大好きな人達の足枷にはなりたくないからだ。

「それにしても、だ・・・」

こほんと、わざと咳払いする美少年―――ダルクは、少女を観察するようにじっくりと。じっくりと上から下までを凝視する。
あまりにも視線が痛く、微動だ出来ない悔しさから睨みを利かせて。
一歩一歩近づいてきた少年に、侍女達は恐れをなしたように頭を下げたままその道を譲った。
手を伸ばせば掴めるその距離。少女を黙したまま翡翠の瞳が見下ろす。

「・・・ふぅん。まぁ百歩譲って顔はまだ良い方か。しかし本当にこんな少女が私の権妻になるというのか、ドロー将校」
「―――致しかなき事かと」

その言葉に、少女は目を点にした。


―――ゴン・・・サイ・・・?


けれどまだ少女は今年でやっと10歳になったばかりの年頃だ。
いくら婚約の時期は早いといえど、もう結婚を考えなければならない頃合にまで来たというのか?
しかしそんな大事な事を父が言わぬはずが無い。

「さっぱりだわ。何故私があなたの婚約者にならなければならないの?」
「王女様・・・!!」
「・・・っ!!」

侍女の一人が、少女の小さなお尻の皮を抓った。
余計な事は言うな―――まるでそう警告するかのように。
思わず後ろを振り返ってその侍女を睨んだが、彼女は何事も無かったような澄まし顔。
未練を残しながらも仕方なく見下ろす相手を見上げた。

「―――目が涙目になっていますよ?どうぞこれをお使いください」

そのやり取りに気づいたのか、小ばかにしたような眼で、ダルクが胸内の物入れから取り出したのは蒼の手拭だった。
けれどそれを受け取けとるのはあまりに気分が悪く。少女はなるべく笑顔で、それを突っぱねる。

「結構よ。少し目が乾燥しただけだもの。それよりもどういう事か私にはさっぱり。父に事の真相をお伺いしてきてもよろしいかしら?」
「おや?いくらまだ幼いといえど、『権妻』<レッチェル>の言葉ぐらいご理解いただけると思いますが?―――しかし噂通りだとすれば知らない事にも納得出来ます。お教え致しましょうか?」
「ええ、ええ。知っているわ。それぐらい、知っているもの」

権妻<レッチェル>。つまりそれは政治婚という事だ。
愛妾とも人は呼ぶが、それを最上級の敬いを込めて、主に公式な場で使われる。
国と国を繋ぐ、贈り物になるなど―――父親と母親のような、そんな普通の恋愛に憧れる少女にとって、王族同士の結婚が俄かに信じられない。



その愛は本物なのだろうか、と。



「『権妻』<レッチェル>ってつまり愛人の事でしょう?正妻ではなく、妾。それはつまり、私が言いたいのは他にも婚約者がいるのかって事よ」
「喜びになられて下さい。あなたが最初の一人ですよ。いずれ増えていくでしょうが」
「信じられないわ・・・!!そんな結婚なんて願い下げよ!!」
「王女!!」
「あなたは黙っていて!!追放するわよ!!」
「―――権力の乱用は止めるべきですよ。第一王女殿。それは王女ではなく、人としてどうかと思いますがね・・・」

再びお尻を抓ろうとしたが、脅しに思わず押し黙ってしまった侍女の顔が輝いた。そして勝ち誇ったような笑みを隠して、ダルクに頭を下げる。


―――ほら見なさい


まるでそう言っているように。
少女は歯を食いしばり、こちらの問題に口を出してきた事にどうしようもない苛立ちを押さえ込んでいた。

「―――こちらとしてもこの国<レドリスト>と手を結ぶのは好都合というもの。和解も交えてあなたを我が国に迎えてもいいと私は考えます。少なくとも愛人ぐらいの寵愛は差し上げますから、最低限度の生活は保障いたしますよ。これで契約成立としていいですか?」
「・・・契約、成立・・・?」

情けない声が出た。

それはつまり、婚約式も何も無い。ただ、連れて行かれ、狭い箱に押し込まれるだけという事。
愛なんてそこにあるはずも無く。それを考えただけで気が遠くなりそうだ。
話が分ってるのにも関わらずそれを認めようとしない少女に、ダルクは嘆息交じりに言った。


「それとも何か不都合でもおありと?」
「あるわよ・・・っ!!不都合だらけよ・・・!!あなたの妾なんてこっちから願い下げよ!!例え正妻でもあなたの隣なんて座りたくないわ!!」

きっぱりと、少女がそう言えば、ダルクはあからさまに柳眉に皺を寄せてからドローと顔を見合わせる。
周りで頭を下げている侍女達など、もしもこれがきっかけで相手の国の敵視対象とされたらと、血相を変えた様子で、ただ重い静寂を耐えていた。
しかし相手はどこか余裕の表情を浮べたまま、少女を冷たい眼で射抜く。
顔ばかりは笑んでいるが、身に纏っている雰因気がただならぬ様子を思わせた。
ふいにその口元が小さく動く。

「―――あなたはそれでよろしいと?国の未来を考えない感情的発言がどんな結果を招くか分っていらっしゃらないようですね?・・・元気がよろしいのは微笑ましい限りですが、礼儀知らずにしてこんな所で失言をなさるような無謀さには関心いたしませんよ―――こちらとしても包容力はあります。先ほどの発言は聞かなかった事にしてさしあげますが、いかがなされます?ここは素直に非を認めてお詫びの一言でもあっていいんじゃないですか?」
「・・・。あなた、そう簡単に口約束の婚約が出来ると思ってらして・・・?」
「誰が婚約だと言いました?これは契約です。結婚ではない」

知っている。王族同士の婚約など、こんなものなのだと。
大好きだった南東の第一王女・カトレア様も、そうやって嫁いでしまったから。
いつかこんな日が来るかもしれないと、知っていた。


けれど、けれど―――




「帰って頂戴」



「―――はっ?」



「たとえ契約でも、殴りたいぐらい憎らしい相手の奥さんだなんて肩書き、私には耐えられない」


逃げるように踵を返し、早足で離れた。
呆然としているダルクの顔に、気持ちが清清しくなったのを覚えている。
彼はいつまでも、少女の後ろ姿を自棄喪失で見つめていたのは言うまでも無く。



***********


「・・・やっぱり怒ってるかしら?あの人」
「恐らく―――」

きっぱりとしたアーロンの口調に、少女はため息をつく。
その場所は城の外部にあたるバラの育成地で、よく二人きりで話す際には目立たない場所にあるという理由からよく利用している。
そこに咲くバラは青く、赤いバラは過去の経緯から咲いていなかった。
バラ園の端には、ドーム状に構成された小さな休憩場所があり、これにもまたバラの花やつるが纏わりつくようにその内部の情報を与えない。
俯き加減の顔を上げて、怒りが蘇ったように少女は険相を深くした。

「でもアーロンっ!私あんな傲慢知己のような方と結婚なんて嫌よっ!美しい花には棘があるものなのよっ!どう考えたってあの王子様、プライドが異常に高くって腹黒いに違いないわっ!自己中心で世界が周っているって勘違いしている痛い方なんだわ!!白馬に乗った王子なんてただの戯言だって事が証明された瞬間ね!!なんでああ顔の整った人って性質が悪いのかしら・・・!!」
「―――庇護の言葉もありません・・・」

素直にそう答えるアーロンの声はどこか苦々しく。
そんな有能なる騎士の脳裏に映るのは、私的に関わる際のオリオンの非情な性格。
実際は穏やかで気優しい立派な王と囁かれている一方で、一度裏を返せば我が侭で嫉妬深い『親バカ』ではなく『バカ親』へと変貌する事を知っているのはアーロンだけだろう。
随分と目線が遠くなったアーロンを知らぬまま、少女は潤んだ瞳を隠すように、憤激する。

「最初は『颯爽とした美しい人』って思ったわっ!けど―――けどっ!あの人私を馬鹿にしたのよっ!?これが屈辱以外の何者でもないわよっ!それにあの鼻を高くした態度っ!別にあなたが大陸統一したわけじゃないでしょっ!?あなたはただその人の元で生まれただけに過ぎない存在じゃない!!そうよ、まさしく歩いていたら棒に当たった!!それだけよ!!この際棒<障害>に当たって船ごと墜落してしまえばいいんだわ・・・っ!」
「ええ。ええ。同情しますが、どうかお声を潜めてください。いつ何時誰ぞに聞かれている事か・・・」

徐々に苦しくなっていくのは何故だろう―――?

なんだか締め付けられるような違和感にある予感が過ぎり、下を見てみれば少女の小さな手が銀色の鎧にのめり込んでいた。
見事に少女が握る手に沿って、鎧はぎしぎしと形を変えていく。
その握力にいつもの如く受け流しつつ、しかしいつ何時でもその馬鹿力には驚くものだ。

―――ああ。鎧がまた一つ駄目になった・・・

これはどうやらオリオンの最愛なる王妃―――シャルロットの天性なる運動神経から受けついだもののようで、ちなみにシャルロットは今妊娠9ヶ月のために安静の状態だ。
ふいに顔を上げた少女。堪え切れない涙を未だ瞳で揺らしているのを見るのはアーロンにとって心地よいものなどでは無い。

「私やっぱりアーロンと結婚するっ!騎士とお姫様の物語はそれはそれは波乱万丈だけど、最後は必ず幸せの終結なの!!だからアーロンっ!私と結婚してっ!大丈夫っ!私がきっと幸せにするわっ!どんな暗殺者が来ても殴り返せるほど、アーロンの背中を守ってあげるくらい強くなるんだから!!どんと任せて!」

小さい頃から同じ事を幾度と無く聞いてきたアーロンは、ただ困ったように情けない顔になった。

―――アーロン、きっと私が幸せするわ

彼女は「幸せにして」ではなく、「幸せにするよ」との、普通は男性の方が取るポジションを宣言する。
それは今に始まった事ではなく、最初の頃こそ床に伏せてしまうほど動揺してしまったアーロンも抗体が備わった事を裏付けるように、穏やかに微笑んだ。

「王女様はこのアーロンを喜ばせるのが大変お上手ですね。しかし優しきその戯言を他の者に聞かれれば、それはあなた様の不為となってしまう事でしょう。やたらめったらと口にされてはいけませんよ」
「まぁ、戯言だなんて人聞きの悪い・・・。私はいたって真剣なのよ!乙女の告白をあなたは背を向けてお逃げになるというのかしら!!失礼しちゃう!!」
「―――我が姫<マイ・ロード>。私のプリンセス。あなたの可愛らしいお顔から笑顔を奪ってしまった私をお許しいただきたい。しかし、何度とも申し上げましたように・・・私の年齢を知っておいでで?」
「今年で確か35歳でしょ?愛に年なんて関係ないわっ!私はアーロンが一番だと思うのっ!」
「そうはおっしゃいますが・・・私はもう中年の身。あとは滅んでいくのを待つ身なのです。それに、この命は既にあなた様のモノ。それではお気に召しませぬか?」
「まぁ・・・っ!!そんなの愛とは呼ばないわ!アーロン、それは忠誠じゃない!!私はそんなものを愛だなんて認めないんだから!!」
「しかし・・・。しかし、我が姫<マイ・ロード>。あなた様が20歳になりますと、私の年齢は45歳。―――お分かりいただけましたか?」
「ダンディ(親父)って素敵なじゃないっ!渋くて好きよ!」
「私はただの騎士です。ですがあなたは私が命を掛けてお遣いすべき国<レドリスト>の王女でいらっしゃいます。身分を越えた自由恋愛を否定など致しません。むしろ推奨していきたいとは思いますが―――」
「そうよね、禁断の恋って燃えるわよね?茨の道だけ愛は深まるのよ?本を見れば一発で分る事だわ」
「ですから・・・それは単なる本の物語に過ぎないお話でして・・・」

説得するネタ<言い訳>が尽きた。
そもそも毎回同じような問いかけと同じような返答が来るとなっては、もう諦めてくれるのを待つしかない。

「アーロンっ!愛が無い結婚は嫌よっ!お父様とお母様みたいな恋愛結婚がいいわっ!あんな非道で冷酷な悪魔みたいな王子様となんて結婚したくないのっ!アーロンっ!私はあなたを誘拐してでもお婿さんにするわ!」
「―――その逞しい発言は心強いのですが・・・。侍女達が心配している事でしょうから、お戻り下さい。むろん、このアーロンがお部屋までお送り致しますのでご安心を」

やんわりと引き離そうとするアーロンに、少女は駄々を捏ねるように首を左右に振り、再び抱きついた。

「―――アーロンっ!あの人私を愛人にするってっ!他にも妻を娶るつもりよっ!私なんて単なる道具として扱うつもりなんだからっ!まるで白昼堂々と公共の場で夜這い宣告しているみたいに性質が悪い男よ!」
「・・・。大変分りやすい例えですが・・・―――そんなにお嫌いでしたか?」
「大っ嫌いよ!」

少女は再度叫ぶ。
もういい加減城内に帰らなければならないと、アーロンは嘆息しつつ腰を屈めて、少女と目を合わせる。
その目じりに浮かんだ涙を指先で拭いてあげ、あまり見せない穏やかな微笑を向けた。

「大丈夫です。陛下はきっと王女様を無理やり嫁がせるような事はしないでしょう。―――もしもそのような誤答をなされるならば、私は命を掛けてそれを阻止する所存です。ですから、ご安心を。それは私が決して許しません」
「アーロンっ!」

少女は嬉しさのあまりか、アーロンの首に手を回して大きな体に抱きついた。
果たしてそれが叶うかどうかはアーロンとてそれは分らない。
なんせ彼女はこの国の第一王女―――自分勝手な恋愛が許されるわけでもなく、婚約はもはや国を繋ぐためだけに行われるのだ。
それをオリオンが私的理由から回避する事など、無謀に等しい。
現に、オリオンの兄君だったヴァル・ヴァロスが喉から手が出るほど欲していた王権を捨てた過去を思えば、王族にその権利<愛>が与えられる事は無いと言わずとも理解出来るだろう。

(残酷だ・・・。彼女が求めるモノが与えられる日は来ないと―――そんな事がいえるはずもないじゃないか)

その小さな背中をぎこちなく何度も軽く撫でてあげてから、アーロンは少女をまるで宝石でも扱うような丁寧さでお姫様抱っこする。
その場に、この二人しかいない事を確認すると、その小さな主に唇を寄せた。



「―――さぁ、マイ・ロドン<私の薔薇姫>。城へ戻りましょう」


世の女性が骨の髄を砕かれそうな、低声で。
華奢ながら強堅の意思を持つ、麗しくも美しき彼女に、アーロンは愛を囁くようにその耳元で告げた。




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「―――アルハーツ・パンドラ<西国の使者>殿、我が娘は小さい頃から人より行動力があり、少しばかり気が強いところもありますが、人想いのいい子です。今回の件についても、ご無礼にもまだ幼い娘は浅い行動を取ってしまいましたが、どうかその寛大な心遣いで目を瞑っていただきたい」

凛とした静かけさに混じったとても穏やかな声音。
若々しい容貌は一瞬にして目を奪われ、何よりもその赤い目は不吉と言われているのにも関わらず、逆に魅了されるような輝きがあった。
ただし、その片目はまるで焦点が合わないように空ろで、それでも優雅に微笑むその姿勢はまさに王の座に相応しい。

司祭の被るような帽子と床を引きずるように纏う白の煌びやかな衣装は、海王の異名を持つレドリスト国王―――オリオン・グローリーによく似合っていた。

長いテーブルでお互い対面し、その金細工で構成された椅子に腰掛けたまま、支給人達が紅茶セットの仕度をし終えると、誰もがその広々とした部屋から出て行き、辺り一体は静寂となった。
王女の度の過ぎた失言にご立腹の宰相は外で待機し、兵士も赤で統一されたモダン溢れるこの部屋から一歩でも出ればその姿を確認できるだろう。
オリオンの巧みな言葉に照れ隠しをするように咳払いをしてから、西の王国の第一王子―――ダルクは当然といわんばかりに答えた。

「心外ですね。私の心は可愛らしい彼女の気質を許せぬほど狭くは無い。ただ、噂通りだった事に少しばかり驚いただけです―――しかし、もしも我が国に迎える際にはその心意気を変えていただけなくてはなりません。私の隣に相応しい振る舞いをしていただかねば―――」
「確かに。あれでは本来王を引き立てるはずの花<王妃>が逆に秘めた棘で名声を傷つける結果が目に見えるようです。彼女はまるで烈火のようだ。触れるのにも薔薇同様、配慮が必要なものですから、正直・・・私の手にも余る事があるんですよ・・・」

けれど、そこもまた愛嬌があると思うのはやはり親心でしょうか―――と、苦笑気味な様子を見せてから、オリオンは言った。

「―――城の者達の話では、どうやら私の娘が大変無礼な放言をされたとか。しかしそれでも我が娘は私達の宝物だ。謙虚するつもりではありませんが、あなたにはもっと相応しいお方がいらっしゃる事でしょう。同盟に、婚約を含む必要性は無いと私は考えておりますが、いかがでしょうか?」

その発言に驚いたのは強国の王子・ダルクである。
宣戦布告とも言えるその発言に虚を突かれたような様子で目を見開き、しかし直ぐに余裕の表情へと変わった。

「―――どういう意味ですか?オリオン殿」

しかしオリオンは陽気に笑って、「深い意味はありませんよ」とそれでも囁きにも似た言葉を唇にのせる。

「私は同盟の公約から、あなたと我が娘の婚約を白紙にさせたいと思っているのです。これは王としてではなく、父親としての迷いなのですが」
「・・・。それは単なる感情的な発言です。条件の良い国家の元へ嫁されるのが王女の役目であり、あなたの役目のはず。国を束ねるものがそのようでは、この国の将来は不安ですね」

ダルクの皮肉にも、オリオンは屈しない。
まるで風で受け流すように再び微笑を浮べると、静かに息をつく。

「例え小さな国とはいえ―――平和が溢れた場所であり続ければそれでいいんです。貴国と同盟を結ぶのも、ただ平和を誓い合うという意味でしかない。―――どうやらあなた方<アルハーツ>は誤解されているようだ。我々は決してあなた方の戦力に期待し、周囲の国々から守っていただこうと策謀している訳では無いんですよ」
「それは初耳ですね。では、今ここで私の機嫌を損ね、同盟が破棄されてしまっても良いと―――それでもあなた方<レドリスト>は困らないとおっしゃるのですか?」

ふいに、オリオンは吐息を零した。それは苦々しく、しかしどこか子供をあやす様に。

「リトル・プリンス<小さな王子殿>。短慮を起こすのはよろしくない。我々は自尊心の高い人種だ。恫喝に屈しない事だけが我ら<レドリスト>の誇りである事をお忘れなく」

幼い子供<リトル・プリンセス>と呼ばれ瞬間―――ダルクの険相はより一層深くなる。
まるで逆鱗にでも触れたかのように、その白い顔は激怒に赤へと染まった。
さながら、『レッド・プリンセス』<赤い王女>と呼ばれた時の彼女と同じ癇癪を起こした反応だ。

「私を子供扱いするおつもりですか・・・!!だから交渉にも応じぬと」
「とんでもない。私はあなたを重要な使者として迎え入れている。あなたの類稀なる能力にも人目置いているのですよ。―――将来、恐らくあなたの国<アルハーツ>は帝国<エデン>と並ぶのではないか、とね・・・」

屈辱を受けたと、少し興奮している少年に、オリオンはなだめるように微笑みかけた。
なるべく氷を溶かしてやろうと、暖かく。穏やかに。
少し腰を持ち上げていたダルクは、己の浅はかさを自覚したように、自己嫌悪で顔を顰めさせた。
無言のまま腰を落とし、しかしどこかその表情は気に食わなさそうで。
ダルクとしては、こちら<アルハーツ>の方が優位に立っているというのに、まるで余裕を持て余している風を見せるオリオン王<レドリスト>の手の平で転がされている心地がしたのだ。
これは間を置かねばと、ダルクは意味も無く咳払いをする。

「―――度の過ぎた評価は単なるお世辞に過ぎません。帝国<エデン>の主といえば我ら<王>にとって父のような存在ではありませんか。例えるならば神である方々と我ら<アルハーツ>など、比べること自体が間違いだ」
「おや?随分と謙虚な事をおっしゃられる。・・・しかし―――確かに、これは少し胡麻を擂ってしまったのかもしれませんね。・・・『今』の時点でそれも現実するのは無謀というものか・・・」
「・・・何をおっしゃりたいのです?オリオン王・・・?」

どこか黒が強くなったオリオンの、穏やかな気性がぶれ始め、思わずダルクは臆するように拳を握り締める力を強めた。
ふいに、空気を変えるように、話の要点からオリオンは遠ざかった。

「あなたの父上殿はお元気で?彼とはかれこれ私が王子時代からの付き合いでしてね、しかし決して付き合いが深い訳ではなかったのですが・・・」
「―――我らのキングは今頃、達者に凱旋していらっしゃる事でしょう。こうしている間にも領地は増えていっているかもしれません。もはや、『聖域』と歌われる亜人の住わまるエルシオン<聖山>を支配するのも時間の問題だとおっしゃられておりました」
「それはそれは―――」

オリオンの表情はどこか非難するのように。
ため息を零す様子からして、こちら<アルハーツ>に不服でもあるようだ。

「この国の海域にも亜人が暮らしております」
「確か人魚<マーメイド>だとか・・・?」
「―――ええ、彼女達とはほんの最近まで冷戦状態だったのですが、今は良き同盟者です。―――亜人とは我々人種とは違い、想像を凌駕する力を秘めている事はご存知で?」
「むろんです。エリシオン<聖山>に住む亜人は空を飛ぶ羽を持ちます。それ故、我らの国は空を飛ぶ術を手に入れたのですから。彼らを手篭めにすれば、恐らく技術はもっと進歩する事でしょう」

それは突然だった。




「早く侵略から足を止めなさい」




その表情は、穏健派などと嘲笑う事が皆無の―――どこか王者の貫禄と威厳を潜めた野心家のものだったと思う。

「・・・」
「亜人を手篭め?それはもはや神に喧嘩を売るのと同じこと。お国を守りたいのならば、私の言葉を素直に受け止める事が重要です。これは亜人を同じくして隣人に持つ者の勧告だと思っていただければ結構」
「・・・話しの要点からだいぶ離れてしまいましたね。戻しましょう」
「私はこれ以上重要な話は無いと思うんですが・・・」
「オリオン王。あなたは私と談じる気は本当におありなのでしょうか?それとも、私達<アルハーツ>を錯乱させるおつもりで・・・?」
「目に見えるような策略は私の嗜好ではありませんよ。アルハーツ・パンドラ<西国の使者>殿。ただ、自滅行為は止めるべきだとお伝えしているだけです」
「あなたは我々を侮っていらっしゃるようですね?負けるとでもおっしゃるおつもりか?」
「アルハーツの軍力が・・・時に帝国を凌ぐという事は、長い年月元―――もはや世界の隋にまで知れ渡っている事です。しかしそれは、この人間界に限った波間。彼ら<亜人>が人知を超えた大力無双だと、お国が滅んでから痛感した時点では既に遅いのです」
「―――はっ。レドリストは一体彼らの何を知っているとおっしゃるのか。まるで一度剣を交じり合った仲とでも言うようにご忠告なさっているようですが、それは推測でしかない。勘違いなさらないで下さい。我々は別に亜人達を追い出すような手荒な真似をするつもりはないです。ただ、人族だけでなく彼ら<亜人>さえも守るため、我が国の保護区である事を公に示しておきたいだけなのです。ですが、それを理解してくださらない一部がいるのであれば、必要な戦いも必然だとは思いませんか。どうしても、避けられない戦いもあるのです」

ふいに、オリオンは深々とため息を零した。
まるでこれ以上何を言っても無駄だと判断したかのように。
むろん、弄ばれ、見下されているように思える現状に、ダルクの機嫌を損ねていくばかり。

「やれやれ。何度同じ事を申し上げればよろしいのか・・・。私個人の意見としては、理不尽な口実を押し付け、土地の強奪をしているとしか捉えられませんね・・・。それは避けられないのでは無く、避けようと配慮なさっていない、国王の慢心さが見えるようだ・・・」
「イェルシェット<無礼な>!!」

これ以上話しても無駄だ―――台を力のまま強く叩き、ダルクは乱暴なアルハーツ語を投げ飛ばして、立ち上がった。
その衝撃で、乗っていたグラスが倒れ、水が床に零れてしまう。

「これは正当な聖戦・・・!!それをかの様に否むなど・・・!!もはやこれ以上お話する事さえも無益だ・・・!!同盟すら結ぶ事を再度議会で検討すべきではないかとさえ思い始めましたよ・・・!!」
「―――やれやれ。若いとは気概に満ち溢れて、実に羨ましい限りだ。我々はあなたと共に手を取り合うことをこれほど渇望しているというのに・・・」
「ならば婚約の破棄は一体どういうおつもりで?我々<アルハーツ>に対して意見以上の、苦言を漏らすなど無礼極まりない!!正直いいますが、我々はあなた方と同盟は結んでも、肩を並べるつもりは無いんですよ。それをお分かりなっていらっしゃるはずなのに、ましてや抵触なされるなど・・・!!」
「・・・確かに、少し言葉が過ぎたようですね。自省致します。つきましてはアルハーツ・パン・・・」
「―――あなた方<レドリスト>の代わりなどいくらでもいる事をもしやお忘れなのではありませんか?」

ふいに、レドリストに並んで自尊心の高いその王子の冷ややかな眼に、全てを凍てつかせる炎を宿した。
まるで押し込めていた箱を解き放ってしまったかのように、愛国心の強い彼は怒りを抑えきれない怒涛に声音を低くする。

「どうやらあなた方は勘違いをなされている!!我々は決して対等ではない!!」
「・・・対等で無ければ一体何だとおっしゃる・・・?」
「あなた方レドリストは我々アルハーツの翼下である事をお忘れになっているようだ」
「翼下?」

ここで初めてオリオン王の表情が崩れた。
何か異物でも口にしたかのように、柳眉に皺を寄せる。

「それはつまり・・・我々レドリスト人がアルハーツの庇護を受けているとおっしゃりたいのか?・・・でしたら否定はしませんが・・・我々は己のやり方で、アルハーツの所望に適したモノを提供していると思っています。新鮮な魚やその他の珍品を。・・・少なくとも一方的な恩恵だけを受けるレドリストであるのは、好ましくありませんからね」
「・・・はっ」

ふいに、ダルクの顔が歪んだ。
まるで醜いものでも見て、それを嘲笑うかのように口元を笑って見せるが、その眼はやはり凍てついたままだった。

「レドリストとアルハーツの同盟を、他国がどう見ているのかをあなたはご存知で・・・?」
「十人十色ですよ。国があるだけの推測がある。それに、周りの流説に惑わせられるのはごめんですからね。あえて聞かなかった事にしていますよ。それが何か・・・?」

ダルクの言わんとしている事の憶測など、出会った当時から知っているオリオンは、重くのしかかる空気にすら気づいていないかのように微笑を零す。
しかし、オリオン王の理解者である者達が彼を一度見れば、目を瞬いて『何故不機嫌なのだ』と首を傾げることだろう。
昔ほどに・・・いや今や癇癪を起こすどころか達観した姿勢で何事にも望む様になった彼の青筋が浮き上がる事などしばらく無かった事だったから、それはなお更になるかもしれない。

「―――レドリストはアルハーツの支配下である事を受け入れた。レドリストは抵抗もなく、逆に甘受して国を売った小心である。―――それが他国だけでなく、我々の見方ですよ」
「・・・やれやれ。私の失言にご立腹なさっているのですね?その様な物言いをするという事は、・・・そういう事なのでしょう・・・?」
「そうですね。ええ、そうなのでしょう。お分かりなのであれば、是非ともキングの御前の下、非礼の侘びをしていただきたいものです。謝罪だけでなく、行動で」
「・・・何をしろとおっしゃる?」

その言葉を待っていましたとばかりに、ダルクは再び椅子に腰掛けてから、勝者の笑みを零した。
状況が己に有利になった事に安堵しているようにも思える。
事実、ダルクはようやく己の流れが主流になった事に、冷静さを取り戻せたようだ。
朱色に染まっていたその顔は今や、極寒の国を彷彿させたような冷淡な白い顔に戻っている。

「・・・そうですね。では、今この場で忠誠を誓うお言葉でもいたきたいものです」
「あなたに不快な想いをさせたとなれば、謝罪はしましょう。ですが、私は己が失言したとは思っていません」
「あなたがそうでなくても私にはー――」



「―――アルハーツ・ダルク・シェリルス」



ふいに、レドリスト王の声音が少し低く響いた。
まるでダルクの身を拘束するかのように、その名を唱える相手は少し俯き、被った正帽によってその表情は見えなかった。
薄く微笑を零し、変わらない態度を示しているように見える相手でも、その周囲に放つ雰陰気が若干息苦しくなった気もしなくもない。
蛇に睨まれたかえるのように、思わずダルクが零れかけた言葉を飲み込んでしまったほど、相手に一瞬で畏怖してしまったのだ。
再び静寂が訪れた。それは短いはずだったのに、永遠の様に長く。

「・・・その様に尻を叩き、我々<レドリスト>の逃げ道を崩されてしまえば・・・―――私は嫌でも頭の角を見せなければならない」

さらりと、まるで脅すようにオリオンは最後に深い笑みを浮べる。
僅かに赤い目の奥に潜む真剣な眼差しを見て、決して脅しではないその一言に、ダルクは言葉を失う。
しかしそれも直ぐに深い笑みのよって隠されてしまった。

「―――とまぁ、つまらない冗談は止めにしましょう。もしよろしければまた私の娘とご対面下さい」

にっこりと、昔は冷酷王子と呼ばれた印象を覆すような穏やかさを湛えて、オリオンは無邪気にそう言うが、間違いなくあれは本気だったと、ダルクは威圧に負けたような心拍音を沈めようと息をつく。
オリオンは再びその唇を動かした。

「・・・あなたはこの国を訪問されたのは確かこの度が初めてでしたね。あなたはまだお若いというのに、王に代わって他国に幾度と無く訪問なさった事でしょう。しかし何故―――この小さな大陸のいくつもある王国の中からこの国を―――いや、我が娘を婚約者にと、突然ご指名なさったのでしょうか?」

「それは―――」

まるで答えにくいとでも言うように、ダルクは少しばかり俯き加減になった。
それでも意を決したように、ダルクは淡々とした口調で答える。


「―――国家繁栄のためです」

推敲更新日

2007年10月05日

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