神風のアステ<第8話>






―――あつい



あつくてあつくてしんでしまう。
それでもてをのばして、なまえをよんで、なきさけび。
おとうさま。おかあさま。おにいさま。おねえさま。
ひがもえて、いえがもえて、もりがもえている。
しんじゃう。このままじゃみんなしんじゃうよ。

『行っては駄目だ』
いかせて

『行ってはいけない』
わたしをとめないで。

『―――逃げるんだ』
いやよ。みんなをみすてることなんてできない。

『逃げなければ、死んでしまう』
いいわ。ひとりとりのこされ、おいていかれるぐらいなら―――

それでも、さいごはほほえんで、ないていて、だきしめてくれる。
あたたかくて、ふるえていたおおきいからだ。




『逃げろ―――』




とっさにせをむけて、はしりだして―――
そのひとのひめいと、ちのにおい。
さいごはくずれおちて、うごかなくなる。




―――うごかなく、なった・・・




こわくてこわくて、せをむけてはしりつづけた。
はしってはしってはしって。
にげてにげてにげて―――
きづいたら、わたしはひとり。
ひとりぼっち。
わたしはみんなをみすててにげだした。
えいえんのつみ。くるしみがからみつく。
こんなにくるしいのならば―――




―――いっそのこと、あのときあのばしょで・・・





**********




「死んでしまえば良かったんだ・・・」




ぽつりと、小さく呟く。
アルテミスは疲労と傷が原因で、横たわったまま動く事が叶わないままだった。
いつの間にか額に冷えた布が乗っていて、熱過ぎる体にとって心地の良いものだ。
自分1人が横たわっても十分な広さがある荷馬車はカタカタと音を立てて活動していて、宙を仰ぐように、雨風を凌ぐために覆われた天井の布を見つめる。
天井を覆う、薄汚れた白の布の隙間からは太陽の光が差し込み、夜では無い事だけは分った。
尚も動き続ける馬車。


一体どこへ向うのだろうか―――?


どこに向うにしろ、アルテミスにとって望む場所ではない事は確かだ。
ふいにアルテミスは顔を顰めた。
殴られた腹をゆっくりと擦り、ただ自分を温める毛皮が思った以上に高級品である事を疑問に思う。
何故ウォルターはこんなにも自分に対して待遇するのだろう。
口が軽く、調子も軽い奴の事だ―――とアルテミスは自嘲する。
少しでも甘い考えをした事を振り払うように、呟いた。

「・・・死なれたら、困るのだろうな・・・」
「―――そうだな。大変困る」
「っ!?」

覚えのあるその声に、アルテミスの体はびくりと文字通り飛び跳ねた。
痛みに短く呻き、アルテミスは足の先から聞こえたその声を辿るように、上体を持ち上げる―――が、やはり体中の痛みに耐えかねて、崩れるように倒れてしまった。
先ほどの声からして、誰であるかなど容易く検討がつく。
天井を見上げたまま、アルテミスは近づいてくる足音を聞いて、頭を横に向けた。
むろん、殺気を宿した青の両目が、焔を躍らせたように光を煮やしながら―――
その場に胡坐を掻く男は、例の如く微笑んでいた。
遊びを企む、無邪気そのものの笑顔が憎らしく、アルテミスは目を細める。

「ウォルターナ・・・っ!」
「以前のようにウォルターと呼んでくれなくなったな。溝が出来たようで寂しいものだ」

おどけてみせるウォルターの優艶な微笑が深くなった。
馬鹿にされているような心地に、アルテミスの顔は見る見る険しくなる。

「―――失せろ。貴様の顔などもう見たくない」
「熱を出したお前の看病をしてやったと言うのに。随分な言葉だ」

アルテミスは挑発するように、力なく片手を持ち上げると、額に置かれた布を鷲掴んで床に捨てる。
ウォルターなどの世話になどなるものかと、アルテミスの精一杯の抵抗だった。
それでもウォルターは好きにしろと肩を竦め、余裕である様を見せ付ける。

「アベルに何かして見ろ・・・っ!お前の大事な者にも、同じ事をしてやる・・・っ!」
「威勢が良くて結構だ。生憎俺は約束を守る男だからな。ガキは今頃手厚い看病でぐっすりと眠ってるだろう」
「―――私をどこへ連れて行く」
「俺の領地だと、前にも言ったと思ったが?」
「―――私を、どうするつもりだ」
「どうして欲しい?」
「・・・」

アルテミスは唇をかみ締める。
逃がしてくれと懇願する事もできない。殺してくれと泣く事も出来ない。


ならばいっそ、仲間にしてくれと頼んでみるか―――?


それこそ、とんでもない選択肢だ。
何も言えなくなったアルテミスの、気まずそうな顔を見て、ウォルターの笑みはますます深くなった。

その時だ。

馬車が大きく揺れ、アルテミスの細い体は一瞬宙に浮く。
そのまま停止した馬車。
ウォルターが目線を険しくしたまま腰を浮かせ、いつでも動ける状態へと変わる。
空気が振動するような威圧感―――アルテミスに見せた険しい表情のどれにも当てはまらない、真剣そのもののそれに隙一つ無い。
こんな男に無謀にも1人で飛び掛った事を浅はかだったと、そう本気で後悔するような圧力に、空気が薄くなったような錯覚に呼吸が乱れる。
外が妙に騒がしくなった。
馬の鳴き声や、低い男達の怒号と慌しい足音。
敵襲との声に、アルテミスの心臓がどくどくと嫌な音を立て始め、顔色が一気に青ざめる。
とてつもなく、嫌な予感がしたのだ。

「相手の数は?」

いつの間にか、ウォルターが天幕を上げて、報告に来た部下に声を潜めて尋ねた。
その声音は空気に溶け込んでしまいそうなほど低い。

「ご安心を。既に鎮圧されています。相手は1人のようでしたので」
「―――1人で複数を相手にしようなど。大した奴だ」

喉の奥で、ウォルターがくっと声を殺して笑う。
しかしそれは相手を馬鹿にしたようなそれではなく、言葉通りその行動を評価するように。

「突然の襲撃に先頭にて3名の軽症です。飛び出したゴーシュ人は既に斬殺されました」

アルテミスは唇をかみ締めた。
一体、誰がそんな自棄を起したのだろうか。

「どうやらそのゴーシュ人に見覚えがあるとの情報からして、解放してやった男のようです。恐らくは、神風を奪還しようと―――」
「そっちに敵が行ったぞっ!相手は1人じゃないっ!体勢を整えろぉおっ!」

突然とその場に、緊迫した空気が流れる。
報告の途中だった兵が剣を構え、ウォルターもまた、腰に装備された柄に手を伸ばす。
アルテミスも起き上がろうとするが、そんな体力がある訳でもなく、その場で崩れた。
外で剣の打ち合う音が聞こえる。それに交えて、懐かしい声を聞いた。




神風様―――と




アルテミスの中で、何かが大きく跳ね飛んだ。
同じく拷問を受けた男達の懐かしい声が、不本意にも聞こえてしまった。

何故来たのか。
何故戻ってきたのか。
怒鳴ってやりたいのに、嬉しい気持ちの方がどうしても上になってしまう。
声が近づいて来た。
期待してしまうような気持ちを押さえ込もうと、アルテミスは己の胸を片手で掴む。
もしかしたら―――と、そう思ったのだ。

しかし。




「やれやれ」



彼を見てしまえば、全てが否定されてしまう。

「せっかく拾った命を捨てるというのか。―――そこまで覚悟があるというのなら・・・いいだろう」

背中を冷たいモノが通り過ぎたような気がした。
アルテミスが、よろよろと、見たくないものを見るかのように、ウォルターの微笑に視線を向ける。
血に飢えた獣のそれ。死神の名に相応しい、歓喜にも似た笑み。
乾いたアルテミスの唇が、尋ねるべきでは無いとどこかで訴えながらも、尋ねられずにはいられない。

「何を・・・するつもりだ・・・?」
「―――お前ならば、まず何をする?慈悲をかけて解放した敵が、再び牙を向けてきた。・・・目の前には敵の指揮官がいる。お前ならば、さぁどうする?」
「・・・っ!」

聞かずとも分るだろう―――と
アルテミスがウォルターの立場であったら、同じ事をするだろう?―――
そう、ウォルターは言っていた。
故に、アルテミスにはウォルターの為そうとしていることが手に取るように理解してしまっている。
その牙の矛が向く先―――むろん己の仲間だと言う危機感が、アルテミスを更に動揺させた。

「・・・これが当然の処置だ」

静かに、諭すようにそう言って、腰に装備された柄を握り、ウォルターはやろうとしている事をアルテミスに見せ付ける。
それは嫌味でも皮肉でもなく、ただこれは正当な事なのだと言い聞かすように―――

「神風。お前も同じだろう?『殺られる前に殺る』。そうやってお前も何十何百の敵兵をその手で血祭りにあげただろう?そうさな。―――これを美化するならば『仲間を守るため』とでも言っておこうか。俺もお前と同じだ」

違うと否定出来ぬまま唇をかみ締めているアルテミスを一瞥し、ウォルターは剣を抜いて馬車から降り立った。

怒号と悲鳴の、血を絶やさぬ小さな戦地へ―――
残されたアルテミスに、出来る事など無い。
出来るはずも無いのだ―――




**********





ウォルターが再びアルテミスのいる馬車へ戻って来たのは、あれからあまり時間が経っていない頃合だった。
悲鳴も怒号も、緊迫した雰囲気も、現場を見てないアルテミスでも消えてしまった事ぐらい良く分る。
物音に反応し、アルテミスは起きないまま視線だけで相手を追った。
痛んだ床に滴る水滴―――鼻が曲がるような生臭さは毎日味わっていたそれだ。
これが仲間の血なのだと、こいつは仲間を殺したのだと、アルテミスの青白い顔色には憤りが滲み出ている。
ウォルターは無言のまま、血塗れた外套を脱ぎ捨てて、その場で胡坐をかいて座り込んだ。
わざわざアルテミスの隣に安息を求めるなど、この男の考えはどうも良く分らない。
アルテミスは、沸き起こる怒りから目をそらす様に、目を閉じた。
仲間を殺した奴を前に、自分は手を出すことすら敵わないとは―――

「寝ているのか?アルテミス」
「・・・」

アルテミスは答えなかった。
どんな状態であれ、敵の懐で堂々と無防備に就寝するなど、ありえないことぐらいこの男でも分っているはずだ。
それをあえて聞いてくるなど、友好を深めようなどと愚かな考えでも持っているのか。
寝ている―――そう思っているのならば、そう恍けていればいいのだと、アルテミスは微動だしない。
アルテミスの魂胆をその耳で聞いたように、ウォルターのため息が聞こえた。

「―――さすがは神風軍の中枢部だ。攻撃にまったく隙が無い。惜しい人材だった」
「・・・」
「作戦も見事なものだ。よほどお前を取り戻したかったのだろう」
「・・・っ!」

せっかく拾った命なのに
せっかく助けられた命なのに

何故みすみす自殺するような行為に走ったのかと、アルテミスは苛立ちにも似た激情を抱いていた。
同時に、何も出来なかった―――何かをしようとすらしなかった自分に嫌悪する。
自分はもう、随分下にまで落ちぶれてしまったようだ。
アルテミスの心情を映し出すように、切なげに睫毛が震えていた。

「―――しかし、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに逃げられては、こちらとしても追いかけるに追いかけられない。追いかける必要もなかった」

こちらとしては、人質さえ守れればそれでいい。
深追いをして墓穴を掘るなど真っ平だと。
命拾いをしたな―――と、ウォルターが口角を吊り上げた時だ。
ぱっと、アルテミスが目を見開いた。
相変わらず、ウォルターはその反応を既に予想していたのか―――表情は変わらないままだ。

「・・・お前が、逃がしただと・・・?」

あれだけ精密な作戦を立てるのが巧妙だったウォルターが、たかが数人の敵を前に失態を犯すなど、それこそ疑うべきだ。
しかし、ウォルターは残念がるように再びため息をつく。

「俺が逃がしたのだと、そう思っているわけか。それはありがたいことだ」
「お前がわざと逃がした訳ではないと・・・?」
「―――いや、わざとかもな」
「何故だ・・・っ!」




「お前のためだ」




沈黙が生じた。
アルテミスの顔から表情が抜け落ちる。
それを見て、ウォルターが皮肉に笑みを深くした。


「―――と言って欲しいか?」
「・・・っ!」

アルテミスは相手を掴んで殺さんばかりの殺気で睨みつけた。

「馬鹿がっ!」

そうだ。アルテミスはゴーシュ人を誘き寄せる餌でしかない。
この男の甘さも優しさも、全て演技でしかないのだ。
再び動き出す馬車に、体が小刻みに揺れている。
それ以上に、アルテミスは怒りで体を震わせた。

「そう邪険にするな。アルテミス」
「・・・貴様の顔を見ているだけで、本当に反吐が出そうだ・・・っ!」
「―――勝手に憎悪を煮やすならばそうすればいい。むしろそちらの方が、あの弱弱しい姿を見せられるよりは心地よいからな。じゃじゃ馬」
「貴様・・・っ!」

アルテミスが体を起こして殴りかかろうとするが、なにぶん力の無い弱々しい体だ。
握った拳など、子供のじゃれ合いを受け止めるような易さで、ウォルターの片手で受け止められてしまう。

「・・・っ!」

急激に動いたため、アルテミスの節々が悲鳴を上げる。
上半身だけを起き上がらせ、腰をねじる様にして殴りかかったアルテミスは、ウォルターの膝元で崩れた。
その後も殴りかかったりと抵抗もして見せたが、尽く全て受け流され、息が上がる頃には拳を振るう事も出来ず、苦虫を潰す様に抗戦を諦めるしかなく。
ウォルターは飄々と笑いながらも、決してアルテミスから離れようとしなかった。
ただ黙って、アルテミスの一動一動を目視していたのだ。

きっと、きっとここから逃すものかと―――そう自ら門番役を買って、アルテミスを監視していたに違いない。


―――きっとそうに・・・


**********



ちくりとした痛みに促され、アルテミスは重い瞼を持ち上げる。
現場を理解する間も無く、アルテミスは節々が痛む事も忘れて、体を起こそうと力んだが、やはり体は正直なモノだ。
結局痛みに顔を歪め、その寝台に沈む事しか出来なかった。
その際、一つの短い悲鳴を聞く。

「安静に・・・してください。怪我が酷いから・・・」

遠慮がちで、消極的な小さな幼い声。
それでも、決して譲れない頑な意思がその声音に含まれていた。
アルテミスはゆっくりと痛む体に負担をかけないように、首を左に回す。

「誰・・・・だ・・・?」

それは少女だった。
アベルと同年齢―――13・4歳ぐらいで、子供らしいふっくらとした頬は少しばかりやつれている。
薄汚れた頬にはそばかすが散らばり、蜜色の肩まで伸びるみつあみを前にしていた。
その表情は声の印象と同じく、自信が無さそうな印象が見受けられる。
アルテミスの露出した肩を白い包帯で手当てしていると知ったのは、彼女が慣れた手つきでてきぱきと仕事をこなしていたからだ。
どこにでも居そうな、そんな少女。 そこで初めて気づく。
その首筋に、小さな黒い刻印が刻まれている事に。
アルテミスの刻印よりも大きく、既にそれは古傷となっていた。
同じ『金色の髪』を持つ事を思えば、容易に一つの要点に辿り着いてしまう。

「お前は・・・『ゴーシュ』人・・・なのか・・・?!」
「・・・。違います」
「だが・・・っ!」

奴隷に刻印などという屈辱を与える行為を好むのは精々、ドロワット人ぐらいである。
ドロワット人がドロワット人に奴隷の刻印を与えるわけが無いのだから、どう考えたって、考えられるのは、この少女がゴーシュ人という事だけだ。
故に、それを否定する少女が何者なのか―――アルテミスは問いかけるように少女を凝視する。
少女は少し居心地の悪そうな顔をして、それでもアルテミスに対してしっかりと答えた。

「・・・。仲間に追放された人間は、『ならずの者』としか言いません。この刻印が、それを証明しています」

ずきりと、アルテミスは胸の刻印が痛むのを知った。
アルテミスもまた、この刻印がある限りゴーシュ人とは仲間に認められる事は無いだろう。



すなわち、『ならずの者』



その手つきはなるべく傷口に触れぬよう怪我人を案じている内実を感じ取って、アルテミスの表情は強張ってはいるものの、幾分か穏やかなものに転じた。
ふと、アルテミスは目を反らす様に天井を見上げる。
木材が露出した容易な造りのようで、それでも雨風は十分凌げる程度の処置は施されていた。
太陽の光が頭側の窓から差し込んで、楽しそうな子供の笑い声や、忙しく走り回る女性の声が耳を心地よくさせる。
小鳥のさえずり。明るい話し声。牛が一鳴きした。


平和な―――臭いがする。


アルテミスは何を考える事も無く、ただ呼吸を深くした。
部屋は狭く、どうやらこの場所にいるのはこの二人だけのようだ。

「ここは・・・どこなんだ・・・?」

どこかと聞いても、アルテミスの中では理解していた。
いくら拳を腹に埋め込まれて気絶させられたとはいえ、記憶が消えるわけでは無い。
場所は分らないが、少なくともここは敵地だ。
少女は答えようか答えまいか迷っているような間を空けた後、少し震えた声で答えた。

「・・・隠村<ヴィヴィー>です」
「隠村・・・?」
「―――私のような、ならずの者達が集まった集落なんです・・・」

最後はやはり空気に溶け込んで消えた声に、アルテミスは興味を抱いたように少女を見つめた。

「何故・・・ならずの者に・・・?」

こんな幼い少女が一族を追放されるような大犯罪を仕出かしたとは到底思えない。
すると、まるで怒鳴られた子供のように肩を震わせて、少女は動揺に赤茶の瞳を揺らす。
蚊が鳴くような、萎れた声が今にも泣きそうに。

「・・・。ごめんなさい・・・」

目尻に涙をためて、今にも倒れてしまいそうなほど、痙攣に近く体を震わせている。
異常なまでの拒絶反応を見せる少女に、真相を追究するまでの理由は無い。
アルテミスは己よりも、むしろ余裕がなくなってしまった少女をあやす様に、傷む身体を起こして、その背中を摩ってやった。

「分った。私も、無作法にそんな事を尋ねて・・・悪かった・・・」

何時に無く穏やかに。刺激しないよう、子供に語りかけるような優しさで、そう謝罪する。
同胞に優しくしない理由など皆無に等しく、ただアルテミスは黙って彼女が落ち着くのを待った。
我ながら、随分と落ち着いた対処だと、内心で自嘲する。
ほんの数日前までは、多くの兵を引き、その前線で王者のように旗を掲げていた神風の、何たる落ちぶれた姿なのか、と。



「―――レナ」



気遣うような、優しい声にアルテミスは弾かれた様に顔を上げた。
見れば、何時の間に―――開いた古びた扉を片腕で押さえる長身が片足に体重を掛けた状態で佇んでいるのを視界に捕らえた瞬間だった。

「お前・・・!!」

あいにく、逆光が邪魔をしてその容姿までは確認出来ないが、その声音に聞き覚えがあったのだ。
ドロワット人だと認識すれば、まるで天敵に遭遇したようにアルテミスは睨みを聞かせて、立ち上がろうと構えるも、弱体化した体ではそれすらもままならず。

「レナ。大丈夫か・・・?」

しかし、相手はアルテミスにまるで気づいていないような態度で、今だ蹲る様に体を震わす少女―――レナを案じて声をかける。
ただその声に反応して、何度も頷く様子からこの現象はさほど珍しい光景ではない事を知った。

「ウォルターナ!!私をここに連れて来てどうするつもりだ!!」

そう犬のように吼えれば、鬱陶しいとばかりにその男―――ウォルターの柳眉に皺が寄った。
今更とばかりに踏ん反り返る様子は、既にアルテミスの怒号に抗体が出来てしまっているようだ。

「・・・まだ牙を剥くか、アルテミス。そろそろ観念して、大人しくしてもらいたいもんだ。・・・レナ、すまないがアルテミスに―――『アステ』に己の立場をしっかりと弁えさせてやってくれ。どうせ水仕事も料理もろくに出来ないだろうからな」
「な・・・!!」

一体これから自分に何をさせるつもりか。
それを問い質そうと拳を握るものの、既にウォルターの関心は他所へ移っていた。

「レイド!!その薬草は倉庫に貯蔵しておいてくれ!!それとその馬は殺すなよ。大事な預かり物だからな!!そこの箱は王都からの土産もんだ。子供達に分けてやってくれ!!酒樽も蓄倉庫に保管しておけ!!間違っても、飲んでくれるなよ!!」

光の射す扉の外に向かって、指示を出すウォルター。よくよくその彼を見れば、地味な鶯色の庶民服を身に纏い、王族には不似合いな馬屋の匂いが纏わりついていた。
これでは王族として周りと一線を敷くどころか、環境に溶け込んでしまっている。むしろ田舎町の頭領と言われた方がよく馴染んでいる様な気がしてならない。
予想もしていなかった―――そして長く忘れていた心地に、アルテミスは戸惑うばかり。
どういえばいいのか、酷く懐かしいのだ。
ようやく落ち着いたレナが、遠慮がちに。けれど意を決したように

「ウォ・・・ウォルター様・・・」
「頼むぞ。俺はこれから視察に周らなければならない。困った事があれば『ユアン』にでも聞いてくれ。奴なら何でも知っているだろうからな」
「は・・・はい・・・」
「おい!!」

そのまま、扉を支えるウォルターの手が外れ、悲鳴を上げて閉まる頃には既にウォルターの姿は消えていた。
今にも追いかけそうな、微妙な立ち方と届くはずも無い、伸ばした手。
その状態のまま、その空間は時が止まったように静寂となった。
歯切れの悪い状態を脱退するように、アルテミスの拳が己の膝を叩く。

「くっそ・・・!!一体何がどうなっているんだ・・・!!」
「あの・・・・。アステ様・・・」
「違う!!」

その禁句にも似た名を呼ばれ、逆鱗を逆撫でされたアルテミスは威嚇に似た怒号で空気を叩いた。
無論、レナは追い込まれた子兎のように体を震わせ、目元に引いたはずの涙を溜め込んでいる。

「ご、ごめんなさい・・・・!!」
「あ・・・。い・・・や・・・。大声を出して、すまなかった・・・。驚かせるつもりじゃ、無かったんだ・・・。ただ・・・」

ただ、その名は呼んで欲しくない。それだけだ。
困惑に揺れるアルテミスの睫が、過去の扉を閉じるように降りた。
再び泉のような瞳を見せた時、アルテミスの動揺など無かったも同然に揺るぎは無く。

「ここに『アベル』・・・。銀色の髪をした少年も運ばれ来なかっただろうか・・・?」
「銀・・・色・・・?」
「見なかったか・・・?」

動揺を押し殺しきれない、揺れる瞳。それでも必死に思い出そうと、両目を泳がせる姿がしばらく続いた。
その後、妙に曇りがかった顔で静かに首を振って否を示す。

「ごめんなさい・・・」
「いや。いいんだ・・・」
「あの・・・。では、私が周りの人達に、聞いてみます・・・」
「っ!?そんな事をして大丈夫なのか!?」

敵対する者同士。彼ら<ドロワット人>が好意を示すなど、考えなれなかった。
むしろ、彼女を虫けらのように扱っているのではないかと危惧したが、よくよく考えてみれば、先ほどをウォルターを見た途端、彼女は発作が収まった様に安堵した様子を見せていたのだ。
もしや、彼女は―――・・・

「ここの奴らを、レナは慕っているのか・・・?ドロワット人に、心を許してしまったのか・・・?」
「えっ?」

恐らく、己の目が軽蔑へと転じてしまったのだろう。
いま自分は一体どんな眼で彼女を見つめているのだろうか?
想像すれば、それは容易く。


「ゴーシュの誇りを忘れてしまったのか・・・!?」


我に返ればやはり涙を。しかし今度はそれを飲み込んで、レナは首を左右に振る。

「けど・・・!!けど・・・だって・・・。ここの人達は私を受け入れてくれて、親切にしてくれて・・・!!」
「演技かもしれない!!そうやって飼い殺しにしようとしているかもしれない・・・!!」
「関係ないんです!!」

それは悲鳴だった。吐血しそうなほど、苦しんだ彼女の心の叫びに、大声を出してしまったアルテミスが言葉を失ってしまう。

「たとえ、ドロワット人でも。私にはもう、ゴーシュもドロワットも関係ないんです・・・!!」
「だからといって・・・!!」

アルテミスには、理解出来なかった。
敵と共に暮らす事。敵と共に食事を取る事。敵と同じ空気を吸っている事すら、彼女には許せず。
どうにも出来ない憤りを押さえて、今だ神風としての誇りが捨てられないアルテミスは、白くなるまで拳を握った。

「すまない。しばらく一人にしてくれ」
「で、でも・・・!!まだ・・・」

このままでは、彼女を攻め立ててしまうかもしれない。
ゴーシュ人としての誇りの欠片すら失ってしまったのかと、罵声を浴びせてしまうかもしれない。
同じ境遇に立ちながら、そんな愚かな事をしてしまいそうな己に、アルテミスは心底絶望する。

「お願いだ・・・」
「・・・。分り、ました・・・」

アルテミスの心情を理解してしまったのか―――レナは悲しげに目を伏せた。
分かり合えないもどかしさに不穏な空気は続く。
静かに立ち上がる彼女の寂しげな背中は、既に同族として見る事は叶わない。


どうせなら、死んでしまいたかった。


目的も、居場所も、希望も失い。残った絶望で、どうやって生きていけば良いのだろう?
ソロモン王。彼ならば、こんな自分でも迎え入れてくれるのだろうか。
いや。恐らく彼は受け入れてくれる。けれど、それに甘える事など、出来やしない。
彼の力になれぬ―――むしろ足で纏いになるぐらいならば、二度と彼の前に現れようなどとは思わない。
虚空だけが心に残り、絶望を通り越せばそれは諦観に変わる事を、アルテミスは知った。


全てがどうでもいい。どうでも・・・









推敲更新日

2008年11月02日

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