神風のアステ<第6話>






「―――選べ」

アルテミスは答えられなかった。
上手く表現できないこの感情に名を付けるとすれば、それは『驚愕』。
しかし、そんな言葉でも足りない。
喉の奥で何かがつまり、呼吸の方法を忘れるほどの衝撃に、アルテミスは瞬き一つ、身じろぎ一つ出来なかった。
痛みも何もかも忘れ、ウォルターの考えている事を必死に頭で理解しようとする。
だが、残念ながらどんなに考えても、アルテミスにはウォルターのやろうとしている事を分かっていても、理解するところまでは到達たどり着く事は出来なかった。
ウォルターも、アルテミスの心情を察したのだろう。
気を緩めるように息を吐き出し、ウォルターは手に持っていた牢の鍵を握ると、アルテミスの牢を開け始めた。
ここでようやく、アルテミスは自我を取り戻し、ウォルターが近づく事を拒否するように、痛みに耐えながらも慌てて体を起こす。

「来るな・・・」

牢の鍵が開く乾いた音が地下牢に響き渡った。
アルテミスは避難するように、尻餅をついたまま後ろへ下がる。

「来るな・・・っ!」

その両目に見せた色に殺気は無いが、敵意だけはしっかりと濃く出ていた。
アルテミスの、忠告するような声も聞いていないように、ウォルターは黒の鉄格子をゆっくりと開く。
ぎぃと、鉄が擦れて甲高い悲鳴のような音が鉄格子の扉が開いた事を告げる。
ウォルターが一歩その牢の中へ足を踏み出しただけで、アルテミスは怯えにも似た気持ちを抱いてしまう。
嘗て心を赦したその男の存在は、アルテミスにとっては消してしまいたい過去に過ぎない。
この男を見ていると、自分がどれだけ浅く、どれだけ愚かだったのだろうと自己嫌悪の念が強くなり、アルテミスを怯ませるのだ。
アルテミスが顔を上げなければウォルターの顔が見えないまでに近づいて、ようやくウォルターは立ち止まった。
アルテミスが何かを言うよりも早く、ウォルターは視線を合わせるように片膝を立てて屈み込んだ。
まじかに見たウォルターの顔に驚き、慌てふためき、逃げるように後ろに下がろうとしたが、生憎背後にある冷たい石造りの壁にそれを阻ばれてしまう。

「近づく―――」
「勘違いするな」

アルテミスの声を遮って、獣の唸る声に似た低い声が釘を刺すように言った。
胸倉を掴むように、乱れたアルテミスの衣服を逃がさないようしっかり掴み、アルテミスは顔を背ける事も忘れて相手を凝視する。
その瞳に隠された本来の姿を見て、それをソロモン王の貫禄に似たものがある事を本能のようなものが感じ取った。
静けさの中にある荒々しさは獣の威嚇よりも覇気があり、自ずと体が竦む。
こんな男に、自分は一瞬でも怯えた事が信じられなかった。

「お前は人質だ。―――ソロモン王を誘き寄せる餌に過ぎない」
「な・・・っ!」
「同情のため?哀れみのため?慈悲のため?それとも、寵愛するためか?―――とんでもない話だ。アルテミス、お前は既に奴隷に過ぎない。嘗て人を導き、人の中心になり、人の希望となっていた過去の栄光など、その胸元に課せられた奴隷の印がすべてもみ消してくれる。ドロワットの奴隷になどに堕ちたお前を見て、ソロモン王はどんな顔をするだろうな?―――たとえお前が俺から逃げ去ってしまおうとも、もうお前は元に戻れない。むろんお前の仲間が、奴隷の印を身につけたお前を受け入れてくれるのならば、話しは別だがな・・・」

皮肉を言って、ウォルターは冷酷に笑みを零した。
敵国に掴まっておきながら、屈辱にも生かされ、奴隷へと堕ちた仲間がたとえ戻ってきても、『誇り高き血に値しない者』として追放、もしくは仲間の手によって殺される。
たとえアルテミスといえど、ゴーシュ人達の元へ帰還しても受け入れられるはずがないのだ。
きっと『何故むざむざと生き残っている?』『何故他の仲間と共に潔く散らなかった?』と、そう怒鳴られ、侮蔑され、罵られるに決まっている。
アルテミスはもう元には戻れない絶望よりもまず、怒りに青白い顔を真っ赤にした。
屈辱に身を震わせ、胸倉を掴むウォルターの手を、爪を剥がされた己の手で強引に払いのける。

「ならば私は・・・っ!」

出来る事ならば、1人でも多くの敵を巻き込んで死にたかった―――と、そんな後悔を残して舌を噛み切ろうとした時だ。
そうする事を既に分かっていたように、ウォルターが先手を打ってきた。

「―――お前は仲間を助けたくは無いのか?」

思わず、反応してしまった。
それを見て、にやりとウォルターが魅力的な毒が盛られた笑みを深くする。

「お前が死ねば、仲間は用済みだ。利用価値の無いものは皆殺しにする。それでもお前は死にたいのか?」

仲間―――つまり制圧された『神風軍』の事だろう。
ウォルターの言い方では、まるで「まだ生かされている」と解釈出来る。
しかし、アルテミスにはそれをそっくりそのまま信用する事は出来なかった。
敵は皆殺しが当たり前の両者であったからこそ、生かしているとはどういう事なのか釈然としない。

「理由など簡単だ。そう簡単に神風殿には死なれる訳にはいかない。いわば、その仲間はお前を生に縋りつかせる目的に過ぎない」
「はんっ!神風軍は情で動くような軟な軍隊では無いっ!邪魔になると分っているならば、潔く死を選ぶだろう。私が彼らのために生に縋りつくとでも―――やすやすと奴隷などに成り下がるとでも思ったか!」
「ほう、ソロモン王から預かった大事な兵を、お前は殺してもいいと同意する訳か?」
「・・・」
「そうか。それは残念だ。お前は仲間の死を目撃しても、平気だと言うんだな?なら仕方が無い」

ウォルターは立ち上がった。
その際にアルテミスの片腕を荒々しく掴まれ、アルテミスは体を揺すって暴れた。

「離せ・・・っ!」

悉くアルテミスの言葉を無視し、ウォルターは立つのも辛いアルテミスを無理やり立たせると、正真正銘の目と鼻の先まで視線を絡ませる。
相手の吐息が掛かるぐらいまでの近さの中、ウォルターは翡翠の瞳を妖艶に光らせ、冷酷な悪魔を宿したような笑みを見せた。

「お前に『いい者』を見せてやろう」

その声音には、アルテミスを試すような口調が含まれていた。



**********



アルテミスの両手には手枷がつけられ、裸足の足には床の冷たさが刺す様に痛い。
ウォルターが手を引けば、アルテミスはまるで飼い主に手綱を引かれる馬のように動かされ、どうにかそれに抗おうとしてもやはり無駄な抵抗に終わった。
真新しい血の臭いと、肉を焼いた臭いが鼻を曲げる。
ネズミが地下牢を徘徊し、じめじめとした空気がひんやりとしていた。
牢屋の入り口には2人のドロワット兵が番人として立ち、ウォルターの姿を見ると敬うように頭を下げた。
ウォルターが中に入る事を知ってか、そのうちの1人が牢屋の入り口を鉄の鍵で開き、道を開けた。
一本の通路に並ぶ、左右対称に並んだ牢屋はどれも狭く、アルテミスがいた牢屋と違ってどの牢屋の中にも人がいる。
がしゃんと、何かが落下するような音が響いた瞬間―――

―――ぎゃぁあああああああっ!

まさしく断末魔の叫び。
地から轟くような悲鳴は、アルテミスの身を強張らせるのに十分だった。
しかしアルテミスを捕捉しているウォルターはそんな声すら聞いていないように平然と顔色一つ変えない。
立ち止まってしまったアルテミスを歩くように促し、先頭を歩くウォルターはある牢の前で立ち止まった。

「見るといい」

やんわりと、ウォルターが促す。
仲間の安否が心配では無いといえばそれは嘘である。
ウォルターの言うがままになる事は釈然としなかったが、ここは素直にアルテミスがその牢の鉄格子に近づいた。

「・・・っ!?」

生暖かな感触が肩にこびり付く。
それが何か、確かめるまでも無かった。
覚えのある匂いと感触、そして暖かさ。

「ゴーシュ王の居場所を吐くんだ」
「・・・っ!」
「痛いのは嫌だろう?話してくれれば、楽になれるんだぞ?」
「誰が・・・っ!お前らなんかに・・・っ!」

ぐしゃりと、中で何かを潰すような音が聞こえたこと思うと、再び耳を塞ぎたくなるような断末魔の叫びが全身の産毛を逆立たせた。
あまりにも幼いその声。
アルテミスは暗いその牢屋の中で一体誰が拷問されているのかと、直感的に悟ってしまう。
―――まさか
真正面から鉄格子が壁となった面会に、アルテミスはただただ言葉をなくす。
目を凝らしてみれば、白い両手が見えた。
しかしその両手も血で濡れ、手首を上から鎖に繋がれている。
足が絶対に床にはつかない様にぶら下げられ、体の体重が全て手首に掛かっているためか、腕の色が紫がかっているようにも見えた。
よくよく見てみれば、その手首から先が片方の手には無い。
きっともう二度と武器が握れないように、利き手である右手首を切り取られてしまったに違いない。
雪のように白く、結晶のような美しさを秘めた白銀の髪がぶら下がり、その表情は良く見えないもののまだ少年でしかない子供である事は疑いようも無い事実だった。
同じく雪白の胸元には肉を抉り出したような痕があり、適切な処置が施されていないためか羽虫が寄っている。
いつも穏やかに笑っているその少年の表情は、肩まで伸びたその髪に隠れてよく見えないが、歯を食い縛り、痛みに耐えている様が目に焼きついた。

「―――アベ・・・っ!」

喉の奥で悲鳴を押し殺し、引き攣ったような声が漏れる。

―――アベルっ!

名前を呼んではいけない。
呼んでしまえば、きっとこの男はアベルと呼ばれるその少年と自分が親しい仲だと判断し、自分の中から情報を取り出すためにもっと酷い事をするかもしれないと、直感的に思ったからだ。
ここは見知らぬ同士を演じ、アベルが役に立たないと思わせなくては―――
しかし既にアルテミスのこの少しの態度で分ってしまったらしい。
見れば、うっすらとその唇に微笑を浮べていた。
さっと、アルテミスは血の気の引いた顔から更に血を引く。
この自分を「アステ姉さん」と独特な名前で呼び、敬愛してくれるその存在が目の前で甚振られているのを見るのは耐え難い苦痛だった。
本当は戦いが嫌いで、本当は軟弱で、本当は弱虫なその子はアルテミスの従者であり、長く一緒にいる家族のような存在だ。
きっと、それは母親が目の前で、父親が目の前で、兄弟が、姉妹が目の前で拷問されていると考えるのと同じぐらいの怒りが湧き起こる。
まだ幼いこの子に何故こうも残酷な仕打ちが出来るのか―――?
今まで自分がしてきた事も何もかも忘れ、本気でそう思った。

(アベル・・・っ!)

再び拷問は始まった。
アベルの後ろに立っているドロワット兵が1人、太い幹のような棍棒を―――それも所々針が突き刺さったそれを、何の手加減も無しに肋骨が浮き出たわき腹辺りに突き刺したのだ。
ぐちゃりと、何かを潰し何かを砕くような音が耳から離れない。

「うぁああ・・・っ!」

泣きそうな、少年の叫びがアルテミスの腰を砕いた。

「・・・っ!」

耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、ウォルターがそれを赦さない。
手を引き、アルテミスが両手を耳に持ち上げる事すらさせてはくれなかった。
まるで、目の前で苦しんでいるその姿を目で、耳で感じ取れと、そう言っている様だ。
喉の奥が痛くなる。

―――止めさせろと、そう叫びたかった。

「・・・っ・・・ぅ・・・っ!」

両手から血が抜けてしまうほど握り締めても足りない。
目を逸らし、瞼で視界を塞いでも足りない。

足りない、足りない足りない―――

再び、ぐしゃりと肉を潰すような音が響いた。
今度はアベルではなく、後ろの牢屋から聞こえた。
更に右、その奥―――今までアベルの悲鳴しか聞こえなかったが、他の牢でも拷問が再開されたらしい。
今、目で見て耳で聞いた事がこの部屋では四方八方で行われていたのだ。
恐ろしかった。
まさに地獄絵図に相応しい光景だろう。
むしろ、この場所こそ地獄だと、本気でアルテミスは恐怖した。
改めて自分が負けてしまったせいで、こんな目に合わせてしまったのだと、容赦なく責任の重荷がアルテミスを責める。

こんな、こんな男に気を赦したために―――

爪が食い込むほど両手を握り締め、アルテミスは顔を俯かせた。
きっと今にも泣きそうな顔をしているに違いない。
そんな弱々しい表情を、間違ってもこんな男の前で見せるわけにはいかなかった。

「目を背けず、しっかりと見ろ」

ウォルターの、無機質な声が振ってきた。
しかし、「はい。そうですか」と素直に言うとおりにする訳が無い。
突然と、大きな手が首を掴んできた。
痛みではなく、束縛するような強さに何の抵抗も無しに顔が上に持ち上がってしまう。

「はな・・・っ!」
「見ろ」
「・・・っ!」

少しぼやけた視界の中、ウォルターの顔がそこにはあった。
やはり感情を移さない無の色がそこにはあり、それでも獲物を狩る様な目つきがアルテミスを真っ直ぐと見下ろす。

「・・・。お前が死ねば、こいつらも死ぬことになるだろう。しかし、お前が生きるというのなら、彼らを生かしてやってもいい」
「拷問を続けられるぐらいなら―――」
「―――いや、解放してやろう」

アルテミスは声を発する事が出来なかった。
歪んだ視界の中、コイツは何を言っているのだろうとますます混乱する。

―――解放・・・スル?

アルテミスなら、捕えた兵士達は拷問を施す前に殺してしまう。
殺して、その死体の耳や指を切り取って、それをご丁寧に包み、王都に送り届けるために一人だけを生かして解放する。
これ以上の抵抗は無駄だと、これ以上血を流すなと、そう恐怖心を与えて、なるべく戦わずに済むようにするだろう。
だが、それをこの男はする事無く解放すると、逃がしてやると言っている。

「・・・何を企んでいる・・・っ!」
「言ったはずだ。お前を生かすためだと」

ぎしりと、歯を食い縛った。
ウォルターは自分に選択を迫っている。
ソロモン王を誘き寄せる餌になり、屈辱に耐えながらも仲間を助けるか―――
それとも、名誉のために、ソロモン王のために、自ら死を選び、優秀な部下達の命を無残に奪い去るか
しかし、例え選んだところでそれをウォルターが守ってくれるとは限らない。
選べる自由を与えられながらも、それを選べない自分がいた。
自由に選べるはずなのに、どうしてこんなにも不自由を感じてしまうのか―――?
アルテミスがこの場で決断出来るほど軽い選択などではない。
しかし、こうしている間にも、仲間が家族が苦しんでいる。
悲鳴と肉を抉る音が嫌でも耳に入れば、どうしても心が揺れ動いてしまう。

(くそ・・・っ!私は、私はどうしたらいいのだ・・・っ!)

歯を食い縛り、目じりが熱くなるのは悲しいからでは無い。
非力な自分が、無力な自分が悔しくて、赦せないからだ。
ふいに、ウォルターの顔が近づいてきた。

「―――泣くほど悔しいか?アルテミス」

相手の吐息は生暖かく、そして優艶だ。
笑んだその表情は氷を押し付けたような冷たさを感じ、自分が狩られた獲物のように思えた。
絶望には決して打ちひしがれないような、野望に満ちたその目はぞくりとアルテミスの背筋をなぞっていく。

「選べないような難しい事を俺は言っていないぞ。自分を犠牲にすれば仲間は助かる。・・・その少年も苦しむ事は必要な無くなる訳だ」

ちらりとウォルターが横に目線を流せば、こちらの存在に気づけないまでに苦しんでいる少年の姿が闇の中で棍棒に踊らされている。
再びアルテミスに視線を向けると、にやりと、笑みを深くした。

「―――それとも、お前の誇り。いや、お前のどうでもいいそのプライドを捨てられないか?結局は、自分が一番大事。そんな輩とお前は一緒なのか?―――神風殿?」
「馬鹿にするな・・・っ!私はそんな愚か者とは違うっ!」
「なら答えは一つだ。素直に奴隷へ堕ちろ、アルテミス」
「・・・っ!」

のろのろと、ただ殺気にも近い怒りの矛を向ける。
ウォルターは受け流すような冷めた目つきでアルテミスの答えを待っていた。
だが、とてもとても言う勇気がアルテミスには無かった。
もちろん分ってはいた。
もうそうするしか仲間を助けられない、と。
そもそも、ウォルターがそれを守ってくれるかも分らないが、それでも選ばなくてはならない。

この理不尽な、選択を―――

「・・・」

ウォルターは息をついて、言い渋るアルテミスの首から己の手を外す。

「・・・そんなに己の口からは言えないか。なら、俺はその手助けをしてやろう」

突然と、ウォルターはアルテミスの腰に手を回した。

「・・・何を・・・っ!」

抱き寄せられ、抗おうにも手枷が邪魔でそれされも間々ならない。
むしろ転びそうに前へつんのめったのを、ウォルターが防ぐように壁となった。

――― 一体何をしようというのか?

ウォルターの顔は牢屋全体を見渡すように一瞥した後、特に大きくも無い声で叫んだ。

「奴隷諸君―――」

凛とした、ウォルターの低い声で、あれだけの雑音がぴたりと無くなった。
荒々しい呼吸音。痛みに耐えるようなくぐもる唸り声。
それ以外何も音がしない。
雰囲気が、がらりと変わった。

「神風・・・様・・・?」

今にも消えそうな声が、何故ここに・・・と尋ねる。
暗闇の中でも分る―――誰もがこちらに注目していると、肌から感じる視線にアルテミスは喉の渇きを覚えた。
こんな変わり果てた自分を、こんな風に堕ちてしまった自分を、嘗ての仲間に見られている。
羞恥に顔が赤くなりそうだ。
何よりもウォルターに抱き寄せられている所を見られている気まずさからアルテミスは身を捩って暴れたが、その片手にしっかりと押さえつけられて、結局は無駄な足掻きとなった。
アベルがアルテミスの姿を初めて目で確認すると、血を吐き出すような悲鳴で名を呼んだ。

「アステ姉さん・・・っ!」

アベルもまた、自分のあまりにも酷い様を見せたくなかったのか、暗闇の中に煌くその目にははっきりと動揺の色が映っている。
しかし、顔を真っ青にし強張っていたその大きな両目から、何か事切れたようにぶわりと涙が零れだした。
あとからあとから、今まで虚勢を張っていたアベルが今初めて子供らしく泣き出したのだ。

「アステ姉さん、アステ姉さん・・・アステ姉さん・・・っ!」

最初にアルテミスの名を呼んだのをきっかけに、何度も啜り泣きながらアルテミスの名前を唱えるように呟き始めた。
蚊が鳴くような小さな声からは、懇願にも似た悲鳴が聞こえるようだ。

―――助けて、と・・・

けれど言ってはいけないと、アベルはたった13歳ながら自覚していたのかもしれない。
そんな痛々しいアベルを見て、ますますアルテミスは己が情けなくなった。
悔しくて悔しくて、ただ歯を食い縛って、目を反らす事しか出来ない。
誰もが注目した中、「神風様」と呟く男の声が聞こえた。
そしてそれは右から、左から、奥から―――
姿は見えなくても、声で誰であるかが分ってしまう。
グルータス、セルシア、デュルース、ヨーゼフ、リオ、ファルコン、ガーゼル。
強張せ、縋るようなその声に、アルテミスは目を瞑った。
最初こそ悲鳴で誰だかよく分らなかったが、どうやらここに集められているのは、アルテミスの腹心とも言える男達だけのようだ。
誰もがまだ若い年齢で、将来のゴーシュを背負う有望な戦士として期待されている。
ならばますます、アルテミスは彼らを助けなくてはならない。
将来を築き上げるためにも、彼らだけは生きなくてはならない。
こくりと、喉を潤した。

「ウォルター・・・。貴様は裏切り者のウォルターナだなっ!?」

ウォルターの姿を目で確認したグルータスが語尾を強くする。
びりびりと、射さす様な殺気が四方八方からウォルターに襲い掛かるが、彼は決して動じることは無かった。

「ドロワットの愚兵め・・・・っ!てめぇだけは・・・てめぇだけは赦さねぇ・・・っ!」
「その汚い手で神風様に触るなっ!」
「ゴーシュは必ずお前に天罰をくれてやるだろうよ・・・っ!」
「お前の存在に不幸あれ。―――貴様の大事な者を全て殺してやる・・・っ!」

ウォルターを良く知る男達が現在の状況をモノともしないように、一斉に罵声と怒声を轟かせる。
それだけ、彼らの怒りが膨らんでいるという事なのだろう。
アルテミスと同じように、何故お前が裏切り者なんだと、何故お前なんだと、そう言っているようだ。
ウォルターは息をついた。

「随分と俺も嫌われたものだ」

それは苦々しそうに、しかしそれすらも受け流す涼しさで口元が笑っている。
しかし、これだけ指揮官が罵られても、拷問を実行する兵士達は「口を慎め」と決して口を出す事も、手を出す事も無かった。
ただ、アルテミスを最初に拷問・暴行を施したドロワット兵と違って、荒々しさは見当たらず、幾分か理性を思わせる雰囲気があった。
ただ無言のままウォルターに向って頭を下げ、それは心から慕う者の尊敬心が伺える。
この場にいるドロワット兵もまた、ウォルターを心から敬愛しているようにも思えた。

―――こんな非道な男を・・・

「アルテミス、お前は生きたいか?死にたいか?」
「・・・っ!?」

一斉に、誰もがアルテミスに注目した。
そんな尋ね方って、無い。
もしも『生きたい』と選択すれば、なんの事情も聞いていない彼らはアルテミスに絶望し、非難するだろう。
『結局、誇りよりも自分の命が大事なのか』―――と
しかし、死を選ぶ事も出来ない。
選んでしまえば、ますます彼らに拷問の荷が活せられ、終いには殺されてしまうかもしれない。
そもそもの話しだ。
アルテミスは落ち着いて現状を考えた。
ウォルターはアルテミスに生きる事を望んでいる。
たとえ死を望もうとも、両手両足を束縛し、猿轡をされればそれまでの事だ。
もとより、アルテミスに選択肢など無かったのかもしれない。

(そうか。・・・結局私は、この男の手の中で踊る事しか出来ないのか・・・)

選べるのは、『ただ一つ』―――
ウォルターはアルテミスに迫っている。
プライドなど、捨ててしまえ。

―――仲間を助けたいのなら・・・と

アルテミスが必ず『こちら』を選択する。
そう悟られている事が、アステミスには堪らなく悔しかった。

「だから貴様は私に『食事』と『怪我の手当て』の選択肢を与えたんだな・・・?」

弱々しく、それでも非難染みた目線でアルテミスはウォルターを見上げた。
肯定するように、その男は笑みを深くして、そして先ほどとはまったく違う笑みをアルテミスに見せる。
甘い毒の蜜を盛ったような、心を溶かしていくような笑みを―――
周りを挑発するような視線を向けたまま、抱き寄せたアルテミスの耳元に顔を近づけると、ウォルターは誘惑するように囁いた。

―――さぁ、選べ






推敲更新日

2007年9月14日

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