神風のアステ<第7話>






それは懐かしくとも哀しい、遠い遠い日の、記憶―――


『きゃぁっ!』

少女の短い悲鳴。ぱさりと、何かが転がったような音を聞いて、慌てて走り出す。
そこは緑の平原が広がる、比較的のんびりとした土地だった。
手が届きそうなほど近い蒼穹の空を、東から西に向って白い雲が流れていき、服を泳がせるような力強い風が春らしい温かさを紛れ込ませて吹いている。
ゴーシュ王国の都市から少し離れたその場所は代々ゴーシュ王家の憩いの土地として使われている地域で、その日は久しぶりの安息―――堅苦しい出仕の日ではなかったために、『彼女』と一緒に遊戯に来ていた。
丘へと続くその道は少し斜面となっているため、少し走りづらいその緑の土地を登るように早足で進む。
ほとんど動く機会の少ない王族にとって移動の手段は常に馬である。責務にも椅子に座って下らない世間話や、どうしようもないゴマすりの言葉を右から左へ流しているだけだ。
故に、少しの運動量でも息を切らせてしまい、首周りをしっかりと閉める衣服から汗が吹き出るため、思わず襟を指で引っ掛け、荒々しく第一ボタンを外した。

―――早く彼女の元へ

白のワイシャツに紺色のボレロ。下のズボンもまた動きやすさを重視した黒のズボンを穿いていた。
前髪をぱっつりと横に切り、肩まで伸びる黄金色の髪が跳ねる。
病的に白く、海の小波を思い浮かべるような薄いコバルト<青>には大人を装った子供の本性が、今日のこの時に限っては濃く出ていた。
彫りの深い、まるで絵から飛び出た美麗の人物を思わせる少年は額から流れる汗を手の甲で拭う。


ふいに、少女らしい子供の泣き声が漏れる。


泣くのを我慢して、しかし我慢出来なかった様な嗚咽に、少年は慌てて足を速めた。
蜜色の髪を風に靡かせている麗しい少女の元へ―――少年は慰めるように名前を呼んだ。

『アステっ!』

上に登るにつれて、薄いピンクのドレスから覗く、ひらひらとした白い下地のドレスと、少女の足の細さを物語る茶色のブーツが見えてきた。
どうやら上に登る途中で転んでしまったらしく、腹ばいの状態で少女は時を止めたように動かない。

『アステ・・・。大丈夫、かい・・・?』

ようやく少女の横にまでたどり着き、少年は安堵に息をつきながらも再び手の甲で汗を拭う。
それから自分が急斜面の中を転がらないように少し腰を落とし、片手を地面に、もう一方の手を差し出して、捕まってと微笑んで見せた。
アステはその国の王子を、泣き顔のままで見上げる。

『そろもん・・・』

今にも泣きそうなアステは、少年―――ソロモンの青とは違う淡青の両目に溢れんばかりの涙を溜め込み、柳眉を寄せていた。

彼女はこの時、本当に本当に儚く、美麗で、優雅―――

けれど他の美人には無い、独特の個性があり、飾らない立ち振る舞いと、自分を押し殺さない活発さ、そしてソロモンの冷え切った心を溶かしてくれた、太陽の女神を思わせる、嫋やかな少女だった。
容易には触れないほどまでに光り輝き、そして一度乱暴に扱えば壊れてしまいそうな印象である。
その言葉通り―――アステは生まれつき体が弱く、人の風邪など直ぐにうつされてしまう。果てには重体にまでなってしまうほど病弱の体だった。
先日もまた、アステは拗らせた風邪が影響で昏睡状態となり、故人となる一歩手前まで弱ってしまったのである。
彼女の両親が腕に保障のある医者を呼び寄せた結果、こうやって外に出られるまでに回復したものの、再びの可能性も捨てきれない現状にソロモンは、まるで壊れやすい宝物でも扱うように、大事に大事に労わりながらアステを可愛がっていたのだ。

『痛い・・・』
『―――うん。痛いね』

自力で立ち上がろうとしないアステを助けようと、ソロモンはアステの前へと移動する。
急斜面と同じ方を向いているため、丘下が絶景に見えた。
このまま足を踏み外せば危うい状況に気を配りながら、ソロモンは両足を踏ん張り、アステの両脇に手を差し込んだ。

『さぁ、アステ。泣くのはお止め』

よこっらしょ、とまだ子供だったソロモンは小さいとはいえ、スカートなどで体重のあったアステを持ち上げるのは骨の折れる作業だった。
しかも足場の状態も悪く、不幸にも風も強い。
それでもここは男の意地である。
ソロモンは剥きになったように歯を食い縛り、アステを引っ張り上げようと無理に力んだ時だ。
ぐらりと、視界が揺らいだのである。

『えっ?』

足元から地面が無くなり、両足が宙に泳ぐ感覚にソロモンは体から寒気が走り、状況の対応できなかった頭が雪崩でも起こったかのように真っ白になる。
がくりとソロモンの体制は崩れ、尻餅をついてしまった。

『いたっ!』

短くソロモンが悲鳴を上げる。
足を踏み外したに留まらず、急斜面であった事も関係して、ソロモンの体が下へ下へと落ちていく。
同時に起き上がろうとしたアステもまた、今度は仰向けに倒れ込み、ソロモンの滑っていく体に巻き込まれて、急斜面を転がった。

『うわぁああっ!』
『きゃぁあぁあ!』

どうにか速度を落とそうとしても、所詮無駄な足掻きだった。
2人は一緒に落下するように滑っていく。
ついには、あまりもの速度にソロモンは草むらに投げ出され、体重の軽いアステなど本当に回転しながら下っていってしまう。
体のあちこちをぶつけながら、しかし幸いにも芝生と身に纏った衣装のお陰で怪我をする事は無かったのだった。

『いっ・・・た・・・っ!』

ようやく止まった頃、頭を抑えながらソロモンはゆったりと起き上がり、自分よりも下にいるアステを見て血相を変えた。

『アステっ!』

仰向けで倒れているアステは泣く暇すら与えらず、ただ呆然と空を仰いでいた。
何が起こったのかと、目を丸くさせ、自棄喪失している。
転がるように走って近づけば、大理石のように白いその頬には草の端が付着していた。
身に纏った綺麗なドレスも泥だらけになっていて、思わずソロモンは「レディーになんて事をっ!?」と絶叫する所だっただろう。
しかし、そうしなかったのはアステがこちらを見て微笑んでいたからだ。
思わず見入ってしまい、だが何故笑っているのだろうと首を傾げてみせる。
すると、アステはソロモンを指差して、楽しそうに再び笑い出したのだった。

「ソロモン、顔に泥がついているわ」

指を向ける―――その行為に、ソロモンは目を剥いて狼狽するばかり。
王族に向かって指を差す行為は、神を軽んじるに等しく。ソロモンは混合とは言え正式な王子であり、例え身分の高い大貴族の娘といえど、黙って見過ごされる事でな無かった。
もしも周りに人がいれば、今までに無いぐらいにまで血相を変え、親にも殴られたことが無いであろうその頬に容赦なく平手打ちの一つでも処罰を施されたに違いない。

王は己の命を掛けて守るべきして敬うべき神―――

それだけ、当時のゴーシュ身分制度が厳しく、たとえ一階級だけしか違わぬ王と貴族でもその溝は深くて大きかったのだ。
しかしまだ幼かったアステであったからか、身分の差に惑わされず、まるで友人と接するように笑っている。
孤独を感じずにはいられない、むしろ兄弟であっても気を赦してはいけないと、そう教訓を受けていたソロモンにとって、その場所はあまりにも心地良く、幸福な時間だった。
その変わらない場所が嬉しくて、ソロモンはまごついてしまったものの不服を唱えるどころか、花が咲き誇らんばかりに微笑んだ。
ソロモンは未だ芝生に寝そべっているアステを起こしてやり、続いて、自分のポケットに手を差し込むと、銀色の止め具を取り出す。

『なぁに?それ』

珍しいものでも見るように、アステは目を丸くする。
そこには宝石を見るような輝かしさは無く、ただ興味を抱いたようにじっとその止め具を見つめていた。
もの欲しそうな目線も無く、くれるのではないかという淡い期待も無いアステに、ソロモンは改めて感心する。
宝石と分っても他の貴族の娘達と違い、目の色を変えて飛びつかないのもアステのいい所だろう。

『今日は一番に、アステにこれをあげようと思ってね』
『・・・えっ・・・?』

アステは戸惑いの声を上げた。
ゴーシュ人の伝統として残されているのは、異性が愛の告白をする時―――男は銀色を、女は金色の止め金具をその相手に渡す習慣があった。
もともと気の高いゴーシュ人は素直になれない性質の者が多く、それ故多くのゴーシュ人はこの方法を用いて言葉の代わりに告白をするのだ。
反骨で有名だったとされた、ソロモンのご先祖が己の愛人に送った事が始まりらしく、それを相手が受け取ったら、それは『任意』と証すると、これもやはり時代の流れと共に定義されたことである。

『もらってくれる?アステ』

ぱっとアステの顔が輝いた。
どうやら、この銀の止め具を手渡す事をの意味を理解していないらしい。
ソロモンの手からそれを両手に包み込むように受け取ると、再びソロモンを見上げてアステは笑った。

『そろもん。ありがとうっ!大事にするっ!』

しかし、その笑顔が急に萎れ、「でも・・・」と困ったように一端言葉を切った。

『わたし、そろもんに何もあげれない。何も持ってないんだもの』

ソロモンは苦笑した。

『これは僕の好意だよ。物々交換じゃないんだ』
『・・・いいの?』
『うん。アステのその気持ちだけで・・・―――だけど、そうだな・・・』

ソロモンは何か意地悪を考え付いたような、子供らしい笑みを作った。
首を傾げたアステの不意をつくように、先ほど失敗を挽回しようと、今度こそアステを両手に抱き上げた。
アステの体は難なく宙に舞い上がり、結わった髪とスカートの先が風に踊らされる。
「うわぁ」とアステは驚きに声をあげ、止め具を落とさないように両手で握り締めていた。

『僕に何かをくれるというのなら・・・』

言葉を区切り、まだほんの子供であるアステに、ソロモンは挨拶でもするように背伸びをした。
アステのまだ小さな唇を啄ばむ様に、一瞬唇を押し当てる。
それは恋人同士がするよりも純粋で、誓いよりも重い接吻だった。

『そろもん?』

訳が分らず、ただ不思議そうな顔で可愛らしく首を傾げたアステに、ソロモンは少しの罪悪感を残して再び笑顔を浮べた。

『何もいらない。ただ―――ただ・・・。例えこの先どんな未来がやって来ても、せめて僕の前では笑っていておくれ』
よく分っていない告白の言葉に、アステは周りに花を咲かせるように顔を綻ばせた。
しかし、突然アステは大人びた口調へと転じる。

「・・・王。私はあなたをお守りします」

顔は幼き頃のまま。だが押し殺したような声音が違っていた。
ぐらりと、世界が歪む。
捻れらような空間に黒が徐々に侵食していく。

「アス・・・テ?」
「―――憎きドロワット人に復讐を。私は全てを捧げます」
「アステ・・・?一体、一体君は何を言って・・・っ!」
「王―――」

気が付けば辺りは何も分らないまでに黒で包まれていた。

まるで、幸せだった過去の夢に終りが訪れたように―――

両手に掲げていたはずの幼いアステは消えて、目の前に成長した彼女がソロモンと対峙している。

「・・・何故・・・っ!」

ソロモンは驚愕に呼吸をする方法を忘れてしまった。
―――成人を迎え『アルテミス』へと襲名した彼女はいつの間にか武装をしていて、気づけばソロモンもまた、成長して逞しくなった体に白銀の鎧を身に纏っていたのだ。
その急激な変化に疑問を抱くより、ソロモンは数歩先に立っているアルテミスの手に握られた武器を見て息を呑む。
しっかりと握られた剣には真新しい血がべったりと、まるで剣が吐き出しているかのように真っ赤に染まっていた。
恐怖と言うよりも、生理的に気分が悪くなり、胃の中がかき回されるような衝動に駆られる。
血の臭いが鼻から離れず、ぐらりと刺激的な光景に眩暈がした。
しかし、ソロモンはそんな体の不調に構っている場合では無かった。

「アステミス・・・っ!何故武器などを手に・・・っ!」
「王。あなたは私がお守り致します。―――命に代えても・・・」
「アルテミス・・・っ!何故僕を―――余を守ろうなど・・・止めろ!」
「ドロワット人に復讐を。私の大事な者全てを滅ぼしたドロワット人に制裁を―――そう。私は・・・」

―――男に、なる

ソロモンを最初に震駭させた言葉をもう一度繰り返し、アステミスが別れを告げるように背中を向ける。
剣を構え、何かと戦う素振りを背中で見せられ、ソロモンはようやくアステミスの前にドロワット独特の黒の鎧を身に纏った男が立っていることに気が付いた。
互いに剣を構えていて、今にも戦いの火蓋がきって落とされそうだ。
ソロモンは血の気が引くのを知る。

「アルテミスっ!戦ってはダメだ!逃げろ!」
「―――私はゴーシュ王を守る神風。私が王の剣。私は、男」
「いい・・・っ!男になどに改心しようなど・・・っ!止めてくれっ!何故なんだ・・・っ!」

あんなに女の子らしく、あんなにも澄んだ心だった彼女が、何故こうも。
こうも憎らしげに。こうも忌々しげに。まるで別人だ。

―――何故男になりたいと願った・・・っ!

ふいに、ドロワットの兵士が剣を振り上げた。
アルテミスはそれに反応せず、その剣を見上げる。

「アステェエっ!」

彼女を助けようと手を伸ばし、走ろうとしたが、まるで地面に縫いつけられたように足が動かなかった。

「アステっ!逃げろ!頼む!アステっ!逃げてくれぇえええっ!」

ソロモンの願いも空しく、ドロワット兵が持つ剣が振り下ろされる。
彼女の胸から下半身へ、剣の軌跡を残して切り捨てられ、アルテミスの持っていた剣がカラリと、乾いた音を立てて崩れ落ちた。
アルテミスの体が力なく後ろへ傾き、血の飛沫が花のように散らばった瞬間―――

「私は―――・・・男に・・・」

それはまさに、ソロモンにとっては『この世の終り』だった。


**********


「・・・はっ・・・・・・・っ!・・・・は・・・・・・・っ!」

ソロモンは目を見開いていた。
はっきりと現実に戻った視界の中―――低い天井に向ってソロモンは何かを掴むように手を伸ばしていた。
片方の手は皺が深くなるまでブランケットを握り締めていて、その手は寄より一層白く、青筋が浮き出ている。
全身から冷や汗を噴かせながら、心臓の音がばくばくと耳元で大きく鼓動しているようだ。
無機質な煉瓦の屋根と、湿った空気と泥臭さが紛れた匂いが、その場は地下であったのだと思い出させる。

今は朝なのか、昼なのか。それともまだ夜か―――?

地下ではそれさえも確かめられない。
ようやく落ち着いてきた所でソロモンは乾いた唇で言葉を作った。

「―――夢・・・なのか・・・?」

片手で片目を覆いかぶし、安堵に肺が空になるまで息をつく。
目尻には涙が溜まっていて、手の甲でそれを拭った。
夢。そうだ、これは夢だったのだ。

しかし、果たしてそれがただの夢で済まされるのだろうか―――?

今彼女は、ドロワット兵に捕まり、考えたくも無いような仕打ちを受けているはずだ。
いつ殺されてもおかしくない状態に、ソロモンは日に日に体の衰えを感じていた。
食事も進まず、他の事を考える余裕も無い。
一度寝てしまえば、最近など彼女が苦しんでいる夢を見てしまい、ついには不眠症に陥ってしまう始末だった。

(アステ・・・っ!アルテミス・・・っ!)

―――彼女は今、どこに・・・


ソロモンの脳裏に焼きつくのは、ただ幸せそうに微笑んでいてくれた、今は『無き』彼女だった。


**********



ふと、アルテミスの目に銀が映った。
それは近くで見なければ目立たないよう、胸元の端につけられていて、それが密着した体に食い込んで少し痛い。
銀色の、見慣れた刺繍を掘り込まれた、王族が持っていそうなほど高価なモノ。

ゴーシュ人の、証<銀の止め具>―――

それを見て、アルテミスの心は、今までに無いぐらいにまで掻き乱れる。
乾いた唇を血が滲み出るまでにかみ締めて、生暖かな甘い吐息で囁きかけてきたウォルターの言葉に絶望していた。

「・・・っ!」

選べなんて、結局選択肢は一つだけだった。
ならばそれを選んでしまえば済む―――という問題でもない。
不本意とは言え、これからアルテミスは仲間を裏切らなければならないのだ。
仲間の蔑視をこの身に受けると思うと、どうしても口が開かない。
どうしても、だ。

「どうした。今更怖気づいたか。なんとも決断力の欠けたリーダーだ」
「・・・」
「俺は生きたいか、死にたいか―――それしか選択肢を与えていないと、何度言わせれば分る」

少し苛立ったようなウォルターの声がアルテミスの身を強張らせる。
優しい包容ではなく、獲物を逃さないような束縛が強くなったのだ。

「―――やはり俺が手助けをしなくてはならないらしい」

冷笑いを含んだ口調がゆっくりとアルテミスの胸元に触れ、直感的にウォルターが何をしようとしているのかを悟ってしまった。
その胸にあるのは、死が名誉なら、これは不名誉な屈辱の印。
さっと、干からびてしまうほど血の気が失せる。

「やめ・・・っ!」

暴れるアルテミスを片手一つで押さえ込み、胸を隠す囚人服を剥ぎ取るように掴んでいた。
―――いや、実際その気なのだろう
だからこそ、アルテミスは全力で暴れた。

「止めろっ!触るなぁああっ!」

アルテミスの恐怖に強張った顔を見て、ゴーシュの仲間達が驚いたように息をつく。
緊迫した空気の中、アルテミスは手枷のついた両手を振り上げて厚い胸板を押し返し、ウォルターの束縛から何としてでも逃げようと全力で身をよじった。
それでも腰に指を食い込ませ、まるで漁師に捕えられた魚のようにアルテミスの抵抗は無効化してしまい、結局は余計に体力を消耗するのみだ。

「止めろっ!止めろぉおおっ!」

膨らんだ胸に触れられていることが、今は気にならないぐらいの嫌悪がアルテミスを支配する。
この印をゴーシュの仲間達に見せようと、尚もウォルターは口を噤んだまま胸元の襟を引き裂いていく。
びりびりと、嫌な音が牢屋に響いた。
くすんだ白の囚人服から覗くのは、少々痩せすぎている女の輝かんばかりの白い肌。
世の男性なら生唾を飲み込んで、その光景に釘付けにされていただろうが、今は別の意味で釘付けとなっていた。
アルテミスの・・・追い詰められた強者の、恐怖に歪んだ表情を見るのは、ゴーシュの男達にとっても初めてのことだったからだ。

「アステ姉さんっ!くそ・・・っ!離せっ!アステ姉さぁあああんっ!」

アベルが必死にアルテミスを助けようともがく。
だが、所詮吊り上げられた魚が尾びれを左右に振って抵抗するのは、無駄な足掻きに等しい。
ウォルターは荒々しく、囚人服の一部を破り獲って、無造作に捨てる。
にやりと口元を歪め、丁寧にも乳房が見えるか見えないかの瀬戸際を守って、その印だけがしっかりと見えるまでに計算したらしい。
妙な優しさと言うべきか―――しかし、アルテミスにとっては奴隷の印を見せられるぐらいなら全裸になってしまった方が遥かにマシだと思った。

「―――大人しくしろ」
「嫌だっ!離せっ!ウォルターナ!止めろぉお!」

ウォルターはアルテミスの体を背後から抱きしめるように回転させると、胸元を掴んでいた片手で手枷を持ち上げようとする。
咄嗟に慌てて前方へ逃げようとしたアルテミスの腹にウォルターは腕を絡めて束縛した。
ウォルターの息遣いが耳を撫で、背中がウォルターの硬い胸板と密着している状態は、嫌でも男の体温を感じた。
ついにアルテミスは泣きそうになる。

奴隷の印なんて見せたくない―――と。

見せるぐらいならば死んでしまいたいと、本気で神に懇願した。

「大人しくしろと言っている・・・っ!」
「嫌だっ!嫌ぁああっ!」

尚も手枷を上に持ち上げようとするウォルターに抗うように、アルテミスは必死に体を丸めて抵抗した。
万歳をしたような格好になれば最後―――その印をゴーシュの仲間達に見せる羽目になってしまうのだから。
死に物狂いで暴れるアルテミスに、ウォルターは苦戦を強いられたように歯を食い縛っていた。

「言う・・・っ!選ぶっ!だから・・・!だからそれだけは―――」
「―――気が変わった。こちらの方が奴等を煽らせるのには絶好かもしれないな」
「嫌だっ!嫌ぁあ・・・っ!」

ますます激しく暴れ始めたアルテミスの状態が尚も続くと悟ったのか、ウォルターは翡翠の瞳に影を落とした。
手甲を掴んだままアルテミスの腰周りを束縛する手を一端外し、拳を作る。
風が、短く唸った。
どすりと、深く抉るように鈍い音が痛みを伴って広がっていく。

「は・・・っ!」

食い込むように、アルテミスの腹に突き刺さっているウォルターの露骨な拳の痛み―――眼孔から目が飛び出さんばかりに、アルテミスは両目を見開いた。
それこそ呼吸すら赦さないとでも言うような耐えれない激痛に生理的な涙が零れ、アステミスは胃の中ものが全て吐き出されるような威圧感に襲われた。
胃酸が喉元までこみ上げて、急激な吐き気を覚えて呻き声を漏らす。

「ぐっ・・・う・・・・っ!」

それをどうにか飲み込んで、耐えるように歯を食い縛った。
風邪を引いたように体が重く、頭痛に目の前が大きく歪んだ。
今にも泣きそうな顔をしたアベルの顔を、鉄格子を挟んで見たが、輪郭がうっすらと浮き上がるだけで、その姿を捉えることは叶わなかった。

「アステ姉さん!」
「神風様!」

ゴーシュ人達の誰もが自分の事の様に悲鳴を上げた。
アルテミスの体力はもともと限界に近づいていたため、今は熱を冷ましたように動かなかった。
くったりと力が抜けた体が前に倒れそうになるが、ウォルターの束縛でそれさえも赦さない。

「・・・っ・・・ぅ・・・!」
「なるべく手荒な真似は避けたかったが・・・仕方が無い」

ようやく大人しくなったアルテミスを見て、ウォルターは落ち着きを払って息をつく。
アルテミスの腹を―――子宮を労わるように何度か擦って、段々と腹から胸へとその手を移動させた。
ウォルターが何をしようとしているかなど嫌でも理解していたが、どうにも体が反応してくれない。
痛みに耐えるように柳眉を寄せ、瞳孔を震わせる。
恐怖が襲い、怒りが襲った。

「やめ・・・」
「―――今は囚われしゴーシュ兵達。お前達は奴隷の印をこの上なく嫌うな。それは屈辱だと。それは不名誉であり、そんな印を受け付けた者は汚らわしい存在であり、疎ましくもあると・・・」

何が言いたい―――と嫌な予感を想定しながらもゴーシュの男達は黙ってウォルターを睨んだ。
まるで続きを促すように、その場はあれだけ騒がしかったのに、今では水を打ったように静寂に包まれていた。
ウォルターの白い手套に包まれた指先で、印を囲むようにぐるりとなぞられて、アルテミスはその妖艶な仕草にぞくりと背筋を仰け反る。

「止めろ・・・っ!こんな、事をして・・・ただで済むと・・・っ!」
「まだ強情を張るだけの力は残っていたか。本当に『じゃじゃ馬』だな・・・」
「貴様・・・っ!」

きりっとアルテミスは歯を食い縛った。
暴れる体力も気力も、もう限界を更に上回った限界に近づいている。
あの一撃で気絶しなかっただけましなのだろうが、もしかしたら意識を失っていた方が幸せだったのかもしれない。
この印を見せるなんて嫌だ。絶対に嫌だ。
そんな事をされた後では、きっとその身が滅んでからも、永遠に―――勇敢だったという名声ではなく、軽蔑の声と目線が纏わりつくなんて、そんなのは嫌だった。
『かえる場所』が、無くなる。
死に行く自分にそんな覚悟は出来ていたが、魂さえもその印で穢されて『還れない』ような気がしたのが怖かったのだ。
ソロモン王も、アルテミスを軽蔑する。
きっと、きっとだ。

アベルも、このゴーシュの男達も―――みんな。

「・・・嫌だ・・・っ!」

ぐすりと、アルテミスは鼻を啜った。

「嫌・・・っ!嫌だ・・・っ!」

弱音を吐くように呟く。
涙がアルテミスの薄汚れた頬を流れ、冷たくて暗いだけの牢屋の床に零れ落ちた。
今度こそ、ゴーシュ人達が瞬きすら惜しみ、呼吸を飲み込んだ。

―――あの神風が、泣いている

「・・・。警告の次は泣き落としか?―――これはなかなか手を上げられないな」

そう呟きながらも、非情なのが無情なのか、ウォルターは手を止めなかった。
しっかりとゴーシュ人達が牢獄された箇所を目線で流すと、獲物を狩る野獣のように瞳を細める。
彼の指先がしっかりと捉えた印が、空気に触れた瞬間―――それを目撃した者の顔から怒りよりもまず、絶望の色が濃く出た。
アベルもしっかりと、何度も信じられないように瞳孔を激しく揺らし、固まった血がこびり付いた唇を震わせる。

「嘘・・・だ・・・・っ!」

アルテミスの、女性独特の膨らんだ胸の谷間辺―――雪のように白く、滑らかさを思わせるような肌を侵すように、少し膿んだ赤い傷が食い込んでいるようだった。
色は黒へと近づき、細かい傷を遠くから見れば、それは鷲が翼を広げたような印だという事が分る。
鷲はドロワット人の象徴。それをゴーシュ人であるアルテミスの体に刻まれていたのだ。
アルテミスが泣くほど嫌がっていた理由を、全員が瞬時に悟り、頭を真っ白にさせる。
自我を失ったアベルがそれを理解してしまった瞬間―――

「貴様ぁああああっ!」

鉄が擦り合う音が乱れ、悲鳴を上げた。
アベルの形相は修羅を纏ったように凄まじく、穏やかな第一印象を覆さんばかりの勢いだ。

「赦さないっ!絶対に赦さないっ!赦すもんかぁあああっ!ウォルターナっ!絶対にお前の首を刈り取ってやるっ!いっそ死んでしまいぐらいにまで酷い事をしてっ!苦しめてっ!復讐してやるっ!それで―――」
「アベル・・・と言ったな。ガキ」

アベルの言葉を遮って、冷め切ったウォルターは興味が湧いたような声音で低く笑う。

「お前がそう思っていても、他の仲間はどう考えるだろうな?」

それはアステミスにとっても、どのゴーシュ人にとっても痛い一言だった。

「・・・まさか・・・っ!」

無言のままの牢屋に不安を感じたのか、アベルが焦ったように声を荒げる。

「グルータスさんっ!何か言って下さいよっ!何故黙っているんですか!セルシアさん、何故・・・何故・・・まさかアステ姉さんをたかが―――たかが一つの印ごときで切り捨てるって訳じゃないですよねっ!?」

デュルース、ヨーゼフも答えなかった。
誰一人として、まるで戦意でも失せたように黙っている。
彼らは今混乱しているのだ。
たしかに奴隷の印を刻んだアルテミスはもう切り捨てるべき相手なのかもしれない。
それでも嘗て共に戦い、崇拝した指導者。
そんな彼女をばっさりと切り捨てられるほど非情では無い―――とは言うものの、やはり先入観が邪魔をして、偏見を受け入れずにいた。
しかし、アベルはそれを『切り捨てて、侮蔑した』と捕えたらしい。
悔しそうに、そして煮えたった怒りを吐き出すようにウォルターに怒りの矛は向いた。

「クソっ!くそったれ!何故アステ姉さんを守ろうとしない!!僕は絶対に嫌だっ!あんた達がやらないんだったら、僕が助けるんだぁああっ!!ウォルターナっ!お前を殺してやる!!絶対にだっ!!」

アベルの目尻からは後から後から涙が零れ、血が滲み出るほど唇をかみ締める。
ウォルターは冷笑を浮べて、アベルではなく戦意を失って、抜け殻のように動かないゴーシュの男達を見渡した。

「―――ワデュ・バディッシュ<負け犬達よ>。神風は今この場で『死んだ』。敗北を悔いろ。与えられた屈辱を忘れるな。お前達は同じ事を仲間にやった。それ以上の事を、武器を持たぬ弱者にやったんだぞ。―――これは報復だ。お前達の報復を報復として返す」

ゴーシュ人達が騒ぎ出す前に、早々とウォルターは更に続けて用件を告げる。

「―――お前達はもう用済みだ。殺してあと始末をするのも面倒。生かして貴重な食料を分け与えるのも無駄。お前達がここにいるだけ邪魔だ。お前達の悲鳴を聞いて眠りを妨害されるのも、血の匂いに食事が不味くなる事にも、ほとほとうんざりしているところだ。解放してやろう。・・・本来は1人でいいんだがな。しかし、どうやらソロモン王の消息を誰も知らないらしい。とてもじゃないがソロモン王と接触できる可能性は低いというわけだ。―――やはり、伝言係は多ければ多いほどいいだろう」

屈辱に、ゴーシュ人の誰もが歯を食い縛った。
利用されるために生かされる事が、この上なく赦せなかったのだ。

「だが、この女と―――」

ふいに、ウォルターは視線をアベルに泳がせた。
絶望に負けない、むしろ闘気を煮え立たせたその飴色の瞳を見て、ウォルターはその少年を酷く気に入ったような、好適な笑みを浮べる。

「そのガキは俺が貰う」
「話が・・・っ!!」

―――違う!!

アルテミスが、ウォルターを非難するような眼を向ける。
涙で濡れ、その顔にも力が無い。
ウォルターは周りに聞こえないよう、アルテミスの耳元で空気のような小ささで囁いた。

「・・・。安心しろ。『今はもう、指導権は俺に移っている』。ガキに拷問はしない。体中の痛々しい傷の手当てもしてやろう。むろん、お前にもな。逃がす奴等には水の補給も、食事も、全て持たせてやるさ」

矛盾した優しさと、矛盾した言葉。矛盾した態度に、アルテミスは頭を混乱させる。
そんなアルテミスを労わるように顔を少し穏やかにさせ、ウォルターはアルテミス手枷を下ろしてやった。
力が入っていないように、くの字に折れ曲がり、ウォルターはアルテミスをモノを運ぶように肩に担いだ。

「だがな。一応反論させてもらおうか。俺はただ『解放してやる』と言っただけだ。・・・なにも、全員を外へ逃がしてやるとは言っていない」

言葉の綾とでも言うように、ウォルターが悪戯を仕掛けた子供のようにそう言った。

「・・・死神・・・が・・・っ!」

ウォルターの背中の衣服を憎らしげに握り締め、尚もアルテミスは声も無く泣いている。
アベルはアベルで、驚きに目を見開きながらも、報復を誓う爛々とした眼が尚もウォルターを凝視していた。
どうやら、ここに残る事を恐れている訳でもなく、不服を唱えるわけでもないらしい。
ウォルターはようやく仕事が片付いたとでも言うように、息を吐き出した。
それから、自暴自棄しているゴーシュの男達に厳かに忠告する。

「ソロモン王に伝えろ。『神風は堕ちた。報復を報復で返すというのならば・・・我等の手に落ちた神風を取り戻したいと望むのなら、全力で抗え』と。―――まぁ、この奴隷の印を刻まれた者を奪還しようなどと思う者は、ゴーシュ人の中にはいないか・・・」

ウォルターのやんわりとした―――しかし、突き刺すようなその言葉はゴーシュ人の男達を容赦なく打ちのめした。

「―――以上だ」

アルテミスを肩に、ウォルターが踵を返せば、これまで微動だもしなかったドロワット兵達が一斉に、その存在を慕い、敬うように一礼した。


*********


再び牢屋の中に静寂が訪れ、火が踊る音だけが聴覚を支配する。
ウォルターが地下牢を上がって、誰もいない地上にたどり着くと、火の音は瞬く間に消えた。
その代わり、何かを耐えるように嗚咽を漏らす声だけが聞こえる。

「・・・っ・・・ぅ・・・っ!」
「―――やれやれ。まるで子供のように泣くんだな・・・」

少し疲れた様な低い声がため息をついた。
アルテミスはウォルターの背中にしがみ付きながら、それに頼らなければならない現状を否定するように服の皺を深くする。

「・・・殺して・・・・っ!殺し・・・っ!」

最初の強気の欠片も無い、プライドをズタボロに引き裂かれたアルテミスのすすり泣く声に、ますますウォルターはため息を長くする。

「―――慈悲を掛けた俺に、何か一言あっても良くないか?」

しかしアルテミスは答えない。
ただ悔しそうに、絶望したように泣いている。
天井の低い、石畳の通路の途中でウォルターは立ち止まった。
視界は悪く、だが地下牢と繋がった道とは違って、この通路の右からは月夜の光が所々から差し込んだ。
四角い枠から月夜が覗き、何を思ったのか、ウォルターは空を見上げる。
蒼の様な、けれど紺に近い夜空に散りばめられた星を見渡した。


「―――『アステ』」

「・・・っ!?」

アルテミスが驚いたように、傷付いている事も忘れて驚きの呼吸を短く吐き出す。
泣き止んだ事を肩に背負ったアルテミスに視線を流して確認すると、ウォルターは再び星空を見上げた。
アルテミスにとって、馴染みのあるその言葉を言われて、ますます混乱している。

「・・・お前・・・っ!―――」
「『星』の事を、人はそう呼ぶそうだな。―――どこにいても、星だけは変わらない・・・美しいもんだ」

何かを勘違いしたらしい―――何故かアルテミスは力を失ったように黙り込んだ。

「・・・」

既に抗う気力すらウォルターに奪われた影響からか、アルテミスが暴れる事は無く―――。
ウォルターもそれを知って、肩からアルテミスの体を下ろしてやる。
だが、既に歩くだけの体力も残っていないようで、裸足である両足を地面についても、その冷たさに負けたように体がふら付いていた。

「おいおい」
「・・・」

ウォルターに寄りかかるように傾いた体を、彼は両手で支えてやる。
勝気に光り輝いていた群青の両目は空ろで、涙を溜めた状態のまま、生気すら感じない。

「―――嘗ての神風と聞いて呆れる。自分の足で歩く事すら出来ないのか?」
「・・・」

アルテミスは答えなかった。
ウォルターの両腕が無ければ、そのまま倒れてしまいそうな重さが掛かり、からかうつもりで言ったウォルターは冗談では無い事態に嘆息する。

「・・・。弱ったな・・・」
「・・・」

表情も無く、瞬きも無く、泣き声も無い。
ただ頬に涙を流し、泣いている。
ウォルターは調子を狂わせられたように、深く息をついた。

「―――お前はこれから俺の領地に行く」
「・・・」
「そこには、平和がある」
「・・・」
「俺は、それを守る領主だ。ある日、守るべき領土で、死者が出た。神風軍に殺されたんだ。何故死んだか分るか?」

アルテミスに僅かな変化が見られた。
それでも、微動だしない。
ウォルターはそれを知ってか知らぬのか―――そのまま続けた。

「あのまま神風軍が進んでいれば、平和なあの場所が血の海となると分っていた。だから、神風軍を破った」

やられる前に叩く。それは当たり前だと、ウォルターは言って、アルテミスもそれは理解した。
それでも、そんな正論を言われてもアルテミスがこの結末に納得できるはずもない。

持っているものを、全て目の前の男に奪われたのだから―――

そう。自分の体すらも。
それを肯定するように、ウォルターは言った。

「『神風』は死んだ。お前はただの奴隷となり、戦う必要も無くなった。俺はそれで良かったと思っている。平和な村で、平和に暮らせば、お前も―――」
「・・・勝手な事を言うな・・・っ!」

アルテミスは顔を上げた。
無表情だったその顔は歪み、苦しそうに呼吸をする。
声は掠れ、今にも消えそうなほど弱々しい。
残った気迫を振り絞り、アルテミスは叫んだ。

「ゴーシュ人でもない。ドロワット人でもないっ!そんな半端になってしまった私が生きれる場所なんてどこにもないんだっ!」
「・・・」
「全部―――全部お前が奪ったっ!赦さない・・・っ!絶対にお前を・・・っ!」

どこからそんな力があるのか―――アルテミスは拳を二つ作り、力の限りウォルターの胸を叩いた。

剣を突き立てるように、怒りをぶつけ、殺さんばかりに―――

「ソロモン王・・・っ!」

最後は縋るようにその名を呼び、アルテミスは崩れ落ちるようにして膝を折った。
ウォルターをそれを受け止め、今度は肩に抱き上げるのではなく、その存在を敬愛するように両足を持ち上げ、背中を支えて抱き上げる。
自然とアルテミスの体は丸まり、両手の行き場所もウォルターの首へと移動した。
やはりここでも、アルテミスは支えられる事が嫌だったようである。
ウォルターの首に爪の無い指を立てて、その甘い行為を否定していた。

「・・・っ・・・ぅ・・・っ!」

ウォルターは無言のまま、誰もいない通路を歩き出す。


**********


「『神風』欲しかったなぁ・・・」

あーあ、と駄々を捏ねるわけではなく、本気でそう思っているのかよく分らない、無愛想な声が呟いた。

「欲しい。本当に欲しい。真面目に欲しい。欲しい欲しい欲しいっ!!」

容姿端麗の両親から生まれたのにも関わらず、平民と並んでも分らないような十人前の容姿。
肩まで伸びたのを結わいている、黒を塗りつぶしたような髪は父親から受け継ぎ、しかし色素の薄い金の瞳とそばかす一つ無い、象牙色の肌は寵妃であるクリスティーヌに似たようだ。
無邪気な一方で、それゆえの残酷さが交じったような獣の目には、捉えた獲物を逃がさない、ウォルターと同じ色が混じっている。
しっかりと両親の特徴を受け継いでいきながら、しかしどうもその性格だけは2人には似なかったらしい。
ドロワット王権後継者第一の、今年で17を数えるシルヴィンはこの上なくウォルターが好きだった。

何が好きなのかと言えば―――彼は実力主義者だからだ。

最初から持っているのではなく、自分の力で欲しいものを手に入れる有能な人物だけが、シルヴィンの目に焼きつく。
だから、『神風』が欲しかった。
彼女を調教しておけば将来、役に立つかもしれないし、噂では誰の目にも留まるほどの美貌と来れば、『美』に恵まれ無かったシルヴィンとて気にはなる。
けれど残念ながら異母兄弟であるウォルターに先を越されてしまい、実母であるクリスの大反対があったのだから、断念せざおえなかった。
実母の、あのキャンキャンと犬のように吠える怒鳴り声にはどうやら頭痛を呼び起こす能力があるようだ。
どうにかならないものかと、シルヴィンは思い出したように身を震わせ、眉を寄せた。

「あーあ。あの女の反対さえなければなぁ。―――神風、欲しかったなぁ・・・。もう喉から手が出るほど。―――そうだ、ねぇ。取引しない?」

シルヴィンの呟きは、どうやら独り言では無いらしい。
相手は唸り声を漏らしながら、最後はきっぱりと首を左右に振った。

「お前が『来い』と言えば行く。お前が『助けてくれ』と言えば全力で駆けつけよう。お前の願いは何でも聞く―――が、残念ながらこれだけは譲れないな」
「けどさぁ。『神風』ここにおいておいた方がいいかもよ?もしかしたら『神風』奪還しにゴーシュの軍勢が押し寄せるかもよ?兄上の領地、弱くは無いんだけど鉄壁じゃないんだし・・・。襲われた一たまりないじゃない?」
「何のための囮だ。こんなおっかない場所に監禁すれば、いくらソロモン王でも手が出せる訳がないだろう。ゴーシュ人達が勝機を確信出来る様な―――そんな場所でなければ尻尾を出さない」
「むー。理屈に理屈返しかよ。僕は兄上のお願いを聞いてあげたのに、兄上は僕のお願いを聞いてはくれないんだね。なんて不公平なんだ。・・・そうだよ。次期王様候補の僕に逆らっていいの?」

困ったように、間が空いた。
どう答えればいいのか分らないのだと、シルヴィンは近づいた勝機に自ずと唇をゆがめた。
しかし、鈍感な兄はシルヴィンの意表をつくのが何枚も上手なのだ。
目を瞬かせて、本気で首を傾げると、相手はこう尋ね返す。

「逆らってはいけないのか?」
「だぁああっ!もうっ!兄上は爆弾発言が多すぎだよっ!父上が聞いたら即・軟禁じゃなくて監禁だよっ!」
「お前は慈悲深い奴だ。俺を軟禁で赦してくれるな?―――なら、俺は自分の領地でこれから軟禁状態に入ろう」
「わお。出たよ。兄上の理屈・・・。胃が痛くなりそう」

低く笑う男の声には、冷ややかな印象も陰の掛かった様子も無い。
ただ、無邪気そのものだった。
何も言えない事が悔しかったのか、シルヴィンは悪戯でも企んだように笑みを浮べた。
犬歯が伸び、野性的な一面を見せる。

「『惚れた弱みは時に強し』って事?」

シルヴィンは皮肉を言うように対象となる人物を見上げ、笑みを隠すように子供らしく頬を膨らませた。

「勘弁してくれ」

ウォルターは、異母兄弟のシルヴィンの思わぬ言葉に苦笑した。
あれだけきっちり着ていたドロワットの軍服は首元を開いてだらしなくし、銀色に光るゴーシュの止め具が月に反射して、綺麗な光沢を作り出す。
胸元につけられているのはこれだけで、ドロワットの王子である証や、第2指導者にだけ渡される、名誉ある他のバッチは既に取り外してしまったようだ。
ウォルターは何故か正真正銘のドロワットなのに、このゴーシュ人伝統の『銀の止め具』を大事にしていた。
そんなに思い出のあるものなのかと、シルヴィンは首を傾げつつも、そんなのが父上の目に留まればどうなのか分っているのかなぁ、と不安になる。
シルヴィンは一度、ウォルターに尋ねた事があった。

『その止め具、どうしたの?』
『預かったんだ』
『・・・誰から?』
『初恋の人にだ』
『はぁ!?』

―――要は、ウォルターの初恋相手は、今敵対しているゴーシュ人という事になるではないか。
もしかすれば、捕えた神風に惹かれたのも同じゴーシュ人だったからなのだろうか?
シルヴィンは、ドロワット人から浮いた存在である異母兄を思って、ため息を吐き出した。
一癖も二癖もある兄を持つと、弟は疲れるのだ。

「・・・神風はどこにいるの?」
「後ろの荷台の中で眠らせた」
「・・・。気絶させたんでしょう?」

ウォルターはやはり、困ったように苦笑する。
肯定しているようなものだ。

「―――とりあえず、帰りは気をつけて。兄上の領地はゴーシュ人とドロワット人の境界線上にあるも同然なんだから。小さい集落なんだし・・・。僕の軍勢、貸してあげようか?」
「誰か好き好んでこんな『死神』の配下にと望む?そもそも、俺は信用できる者しか手元に置かない事にしている。・・・どんな輩が俺の命を狙っているか分らないしな・・・」

シルヴィンの脳裏に駆け巡ったのは実父であるゴーシュ王の顔だ。
ゴーシュ王は実子であるウォルターの命を狙っていた。
彼の名声が上がる事を恐れ、しかしそれが不満だと殺す事は出来ない。
なるべく自然死に見せかけるようにと、ウォルターは常に暗殺者の影に狙われていた。
シルヴィンもそれが正論だと、再び息をつく。
白に輝く獣の鬣を、愛しそうに撫でているウォルターを一目してから、シルヴィンは視点を下ろした。

「・・・、その馬、綺麗だね」
「そうだろう。『カステリア』という名らしい。雌馬だ。主人に似て美しいが、その性格は似なかったようだな。こいつは随分と穏やかで聞き分けがいい」

ウォルターの跨っている馬は白く、ドロワットの黒馬には無い美しさがあった。
黒馬の長所が怒涛の力強い走りとすれば、白馬は疾風の如く滑らかに走る。
これはゴーシュ人の多くが駆使する種類で、『神風』の愛馬である事をシルヴィンは瞬時にして悟った。
ウォルターは随分と『神風』に対して親切のようだ。
敵の馬は大体食料として殺されてしまうのだが、ウォルターはそれをしなかったのだから。

「―――まさか本気で惚れたとか?」
「昔の馴染みに対して親切にするのはそんなにおかしいか?」
「・・・」

月を背後に立つウォルターは自分の領地に帰る為、誰もが寝静まったこの深夜に夜逃げするように立ち去ろうとしていた。
正確には、『神風』を奪還するために襲い来るかもしれないゴーシュ人の軍勢から自分の領土を守るために―――何よりも餌でおびき出したのだから、それを仕留める準備をしなくてはならない。

一刻も、早く―――

ウォルターには守るべき者達がいるのだ。今この時この瞬間―――ゴーシュの軍勢に襲われているかもしれない。
返り討ちに出来るだけの軍勢を置いてきたが、領主としては気が気ではないのだろう。
視線を遠くにやり、何かを思案するようにウォルターの目は細まる。
シルヴィンが視線をウォルターの後ろへ泳がせた。
ウォルターを待っているのは2台の荷馬車と数人の部下達だけ。
あの名高き『死神』の勢力にしては些か物足りなさを感じるが、実際1人が10人の勢力を持つ実力者が揃っている。
ウォルターを見送るために、城の裏門まで来ていたシルヴィンはふと、不安そうに口を曲げた。

「兄上さぁ、最初は好奇心だと思ったんだけど、『神風』に対してかなり親切だよね。やっぱり、本気なの・・・?それとも―――」
「俺は常に、ドロワット人の繁栄を考えている」
「『神風』を餌に使う事―――抵抗ないんだね?」
「無い」

即答だった。
これだけ綺麗に返事を出されれば、シルヴィンはこれ以上何も言えない。
それでも、ただ不安そうに顔を曇らせた。

「―――兄上は、父上にどんな『弱み』を握られているの?」
「・・・」
「その『弱み』が無くなったら・・・兄上は―――・・・」



―――離れていって、しまうの・・・?



孤独を愛する猛獣の、何時にも無い弱気の気配に、ウォルターは苦笑を零す様にため息をついた。

「・・・。な、なにさ。可愛い弟がこんなにも真剣なのに、そこため息つく所?」

「一体何を心配してるんだか分らんがな。俺はお前が王になった時、お前が望んでくれるのならば喜んで頭を下げるといつも心に決めている。俺は継承権第一を剥奪され、王族としての資格が無いとは言えな、お前は俺にとって唯一無二の弟である事に変わりは無いんだ。毒殺されるなよ、ジュディー<兄弟>」

ウォルターはシルヴィンの黒髪を乱暴に一撫ですると、目を回す弟に構わず綱を引いた。
朝が近づき、日が昇り始めたのだ。

「兄上っ!」

ウォルターが僅かに首を動かすが、振り返る事はしない。
それが分っていたから、シルヴィンは相手に聞こえるようにと、一番聞きたかった事を大声を張って尋ねた。

「兄上は、アイシア様<異母>と『同じ事』なんて、絶対にしないよねっ!!」

ウォルターは背中を見せたまま片手を上げ、ひらひらと宙を泳がせた。
それが答えだったのか、それとも挨拶だったのか。
謎を残して、ウォルターは少ない部下と2台の荷馬車を転がし、領地へと続く森へと消えていった。





推敲更新日

2007年9月14日

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