神風のアステ<第5話>






ドロワット国にとってまさに悩みの種だった『神風』の捕獲報告に、王を取り巻く者達がそれを喜んだ。
明日からぐっすり眠れると、しかしそれを成したウォルターを歓迎し、褒め称える事を周りはせず、本人もそれを不服と感じてはいなかった。
まず最初に、『神風』の所有を望んだのはドロワット王の子息の1人、シルヴィンだ。
しかしそれを即座に否定し、毛を逆立てた猫のように反対したのはシルヴィンの母にしてドロワット王の寵妃であるクリスティーヌだった。
穢れたゴーシュの雌を手元に置く事を毛嫌い、それを理由に母親を誰よりも尊重するシルヴィンが『神風』の所有を諦めたとされている。
しかし、それだけが理由ではなかった。
事は、シルヴィンが『神風』の所有を望む前まで遡る。


***********


「―――彼女は、俺の所有物にします」

断固たる宣言に、その場が静まり返った。
それはウォルターの、感情の篭っていない声。
何を考えているのかすらまったく予想できないような、頑なに何かを拒むような表情にも色は無かった。
ウォルターは自分が仕える王―――ドロワット王にそう言ったのは理由がある。
控えている兵士が息を呑んで、ただ侮蔑を含んだ眼差しを向けていた。
なんせウォルターは『ならずの者』。
死神だと畏怖し、愚人だと軽蔑するのはその生い立ちを知っているからだ。
誰もが無言ながら、四方八方から寄せられる視線すら撥ね退けるウォルターの気迫に濁りは無い。
ただ赤い絨毯が伸びる先―――目の前の玉座に腰をかけたドロワット王のにやけた顔を見つめる。
漆黒の髪を油で馴染ませて固め、貫禄を秘めた翡翠の瞳はおもしろそうにウォルターを見下ろしていた。

「ほぅ。お前が女を進んで自分のモノにすると言い出すとは・・・。一体どういう心の変化だ?」
「美しい花があれば己の目の届く場所で鑑賞したくなる―――男として当然かと」
「疑いようもない直接的な表現だな」

「お前らしい」と蓄えた黒の髭を撫でて、指輪の展示会でも出来そうなほどの数を装飾した片手が、これまた重宝にされそうな金のグラスをゆっくりと回していた。
紫がかったアメジストのようなワインが僅かに零れるが、直ぐに絨毯に染み込んで消えてしまう。
そのワイン一滴で、民が1人、1ヶ月は暮らしていけると、果たしてこの王は分っているのだろうか?
しかしそんな事を分かっていても、彼にとっては記憶にも残らない情報だった。
王間として相応しい、ドーム型の高い天井からいくつものシャンデリアとガラス細工の窓が豪華さを彩り、はたまた辺りを見渡しても宝の宝庫である。
床はもちろん大理石で、所どこで宝石が散りばまれているのは、ドロワット王のこだわりそのものがあった。
要は財力が豊富にある事を王間全体を使って宣伝している訳である。
ゴーシュ人を初めて負かせた、いわばドロワットの英雄と評されるドロワット王は史上初の無敵軍団を作り出し、その的確な指示と冷酷にして非道、なによりも気骨な男だった。
外見はまさに大男そのもので、身に纏った衣服がそうさせているのか、その外見からしても只者では無い匂いを漂わせている。

「その女をわしは自分の所有物にしようと思っていたのは事実だ。そんな珍しい見せ物、このわしが欲しがらないはずが無い。しかし、「『俺の所有物にする』―――と言ったな。ずいぶんとお前も・・・」

隙が無く、一切の気の緩みを赦さない空気が漂い、静まり返った空間が、また更に重さを感じさせた。

「―――生意気な口を叩くようになったものだな」

その声音一つで、大の男ですら肩を竦めてしまうだろう。
しかしそんな威圧にすら感じないように、ウォルターはしっかりと顔を上げる。

「彼女を捕えたのは俺です。あれは俺の褒美であり、第一所有権は俺にあるはず―――まさか、あなたが決めた配偶物の分与法を覆す訳ではありますまい?」

横取りはさせまいと、そう釘を刺すような物言いに、溜まらず傍に控えていた初老の宰相が怒鳴った。

「貴様っ!王に対して―――」
「まぁ待て。そう癇癪を起こす必要は無い。こやつの言っている事に間違いは無いのだからな。それを指摘され、気を荒立たせるのはあまりにも勝手が過ぎるではないか。・・・そうだろう?ウォルター」

同じ翡翠の目が、じっくりとウォルターを観察する。
獲物を狙うようなその目は獣の殺気を宿していた。
まるで刃物を突きつけるように、気迫に満ちた視線を向けられているためか、少しばかりウォルターの表情は固いようにも見える。
アルテミスと過ごした頃の穏やかさなど微塵も無く、その表情は厳しさを染み込ませた軍人の顔つきだった。
ぴんと背筋を伸ばし、然様とでも言うように無言のまま一礼する。

「だがな、ウォルター。その女はゴーシュ王の生き残りの居場所を知っているかもしれないのだ。所有物にし、愛でるのよりもまず先にやる事があるだろう?」

諭すように、ドロワット王の表情は穏やかな笑みを湛えていた。
しかしその目を見れば、まるで微笑んでいない。
高貴なる花と、ゴーシュ人の中では絶賛を浴びる神風を自分の物に出来ない不満からか、それとも自分に逆らうにも等しいウォルターの態度が気に喰わなかったのか。
表にその態度は出ていないものの、物言いに対しての声音がいつもより低い。
ふと、考えるようにドロワット王は宙を仰ぐ。
頬杖をつき、想像する事を楽しむ子供のような無邪気さが伺える。
だが、それは全て計算された演技に過ぎない。

「―――そうさな。数日は我が城で、ゆっくりと神風殿の口を割らせてみよう」

ぴくりと、ウォルターがそれに反応する。
しかし、あくまでそれは態度には出さない。
動揺した様をこの王の前で見せるわけにはいかなかった。

「ゴーシュの華麗な花にして、囚われの小鳥というわけだ。その愛らしい声で鳴いてくれる事を期待しよう」

楽しそうに、くつくつとドロワット王は笑う。 その言葉の奥に潜む性欲の影。しかし拷問と言う名の義務を伺わせる発言で、覆い隠されてしまう。

「・・・」
「噂では、ゴーシュ王の息子すらも魅了したほどらしいな。どうだったか?ウォルター。お前は数ヶ月、その女と共に過ごしたのだろう?わしの目にも止まりそうな女か?それとも、筋肉を身に纏わせた戦士のような、ただの出任せの様な女だったのか?どっちだ」

ウォルターが思い出すように、沈黙を設けた。
少し俯き、伏せ目の状態でウォルターは機械的な声を出す。

「恐らくは、貴方の目にも叶う艶麗の花でしょう。噂よりもだいぶ幼く、誠に武術を板につけたのかと最初こそ疑ったほど華奢な体つきです」
「―――ほう」

興味を抱いたようなドロワット王は身を乗り出す。
その顔にはうっすらとした笑みが零れていた。

「まさに馬のような女です。可愛がろうとすれば暴れ、手なずけようとしても決して懐かず。少しでもその鬣に触れようとすれば、後ろ足で蹴りつけそうな勢いでした」
「それは『じゃじゃ馬』という言葉が相応しいだろうな」

笑うようなドロワット王の声は先ほどと打って変わって上機嫌なものだ。
しかし、誰よりもゴーシュ人を嫌うこの男が何故こうも興味を持ったような態度を見せるのか、ウォルターは知っている。

「時間は大分掛かりましたが、綱を引けば素直に応じるまでにには・・・」
「―――で?既に手篭めにはしたのか?」
「滅相な事です。口説きはしましたが、とてもとても手など出せる状況ではありませんでしたので・・・」
「そうかそうか」

ドロワット王は何度も頷いて見せた。
ウォルターに対して好意を抱くような視線と笑みを見せながら、しかしそれもまた表側に過ぎない。
この王は、ウォルターを嫌っていた。
だからこそ、ドロワット王はウォルターが神風であるアルテミスを気に入っている事を知り、こうやって焦らそうとしていた。
しかし生憎ウォルターも馬鹿では無い。
そんな態度を正直に出すより、こうやって無を装っていればなんの問題も無い。
アルテミスを抱きたいなど、それは単なる口から出任せに過ぎない事を、ウォルターは理解していた。
ドロワット王はウォルターを嫌っている・・・が、それでもこうやって好意的な態度を見せるのは、彼を支持する民が多い故の、言わば支持率を下げないための演技なのだ。
ウォルターを嫌っている事を裏付けるように、ドロワット王は言った。

「―――お前はその女を自分のモノにすると言ったな。遊び程度の遊戯であろうとも、ゴーシュのメス豚を種馬にしてしまうかもしれない。そもそも、穢れた血を持った女を自分の傍に置こうなど、よくもまぁそんな屈辱的な事が良く出来るものだ。非難するより他ない。いや、既にそれは関心した方が良いかな?やはり・・・」

ドロワット王は一瞬、言葉を切った。

「やはり、『同じ血を引き継ぐ』者同士、通じ合うものでもあるのだろうな」

ウォルターの表情を伺いながら、ウォルターの異変を確かめながら―――
ドロワット王は言葉とは裏腹の、穏やかな笑みを見せる。
禁断に似たその一言で、一気にその場の空気は重くなった。
それでも、ウォルターの表情は変わらない。
もとより『無』そのもの。
僅かに、外套を止める銀の止め具に宿った光沢が踊るように揺れ動く。
顔を上げて、ウォルターは言った。

「―――拷問の主導権は、俺に握らせていただけないでしょうか?」

僅かにドロワット王の表情が変化した。
笑みを崩し、疑うような眼差しがウォルターを射る。
まるで、「手抜きでもするのでは無いか」と、そう言っているようだった。
しかし、ウォルターはそれを真っ向から否定した。

「王も是非、お時間がありましたら神風の拷問状況を見物に来てください。俺に限って、手抜きは一切しません。それをあなたの目で証明してみせましょう」
「ほう・・・」

楽しそうな眼差しが、細まった。
目じりに深い皺を造り、ウォルターのこの申し出をひどく気に入ったようだ。

「ただし―――」

ここで一旦区切る。
ドロワット王が少し反応を見せた。

「ただし、その拷問は2ヶ月。それ以降は、俺の好きにさせて下さい」
「手抜きは、しまいな?」
「言いましたように、見物にいらしてください。もしお気に召しませんでしたら、なんなりと」

しばらく沈黙が生じた。
ウォルターとドロワット王はしばし見つめ合う。
腹の探り合いをする間は、重々しい静寂に包まれていた。
ふっとドロワット王は笑みを零し、目を閉じる。

「いいだろう。あとは好きにするが良い。だがな、ウォルター。正直、わしはお前を信用しきっていない」
「・・・」
「その女の言葉に惑わされ、お前はわしを裏切らないとは限らん」

ウォルターは安心させるような笑みを浮べた。
翡翠の瞳に僅かに影が宿る。

「それを、あなたがいいますか?」

「何?」
「―――いえ。俺は裏切りません。決して・・・」

にやりと、ドロワット王は顔をゆがめて口元を吊り上げた。
閃光の走るドロワット王の両目には魔物のような殺気が宿り、裏切りは赦さないと訴えている。
そして再び、またあの微笑。

「―――いやいや。お前には悪い事を聞いた」
「いえ」
「そうだな。お前はわしを裏切らない。―――裏切れない」

ウォルターは無言だった。

「なんせ・・・」

その後に続いた言葉は、ウォルターをしっかり縛り、離さない呪縛となる。



**********



「アルテミスが・・・捕まった・・・!?」

まるで男のものとは思えないほどの穏やかな声が、驚愕に震えた。
金の長髪を後ろで括り、蒼の両目がこれ以上に無いと言うまで見開かれている。
すっと通った鼻は高く、白に近い肌と、女性とも見て取れそうなほどの容姿は母親譲りと言われていた。
年は今年で23。今は亡きゴーシュ王の第五子で、武術や学問において最も良く出来た王子と言われた、ゴーシュ王族の生き残りである『ソロモン王』は、水の滴る音すら消えこる地下で身を潜ませ、ドロワットの魔の手から逃れていた。
地上に出れば、そこはドロワット人に膝をつきながらも、ソロモン王を匿うゴーシュ人の屋敷内で、ここが一番の安全な場所だった。
天井は声が跳ね返るまで高く、まるで洞窟のような造りで、辺りは暗く、松明が立てられていなければ相手の顔すらも分らない。
しかしここには王族の子息に相応しい金細工の椅子や机、宝石を散りばめられた王座も全て王室にあるようなものは最低限度揃っている。
ソロモン王の周りには、彼に忠誠を誓うゴーシュ人の生き残りが集まり、じっとその報告に耳を傾けていた。

「はい・・・っ!私どもも、一体何が起こったのかと・・・っ!ただ、ただ我々の軍に裏切り者がいたっ!それだけは確実ですっ!」

目の前で膝をつくその男は額に包帯を巻き、それももう真っ赤に染まっている。
両手をなくし、その先にも包帯が巻きつけられていた。
彼はもう武器を持って闘う事は出来ないだろう。

まさに敗戦後の兵士の姿―――

今にも倒れてしまいそうな大男の顔は苦渋に歪み、額には冷や汗を噴出していた。
唯一神風軍の中で生き残り、死に物狂いで逃げていたそのゴーシュ人を偶然にも通りかかったゴーシュ兵が拾って来たのだ。
彼は怯え以上に怒りを煮やして肩を震わせ、戦乙女を失ったと男泣きをする。
その報告を聞いて、ソロモンは腸が煮えくり返るような衝動に駆られ、王座から立ち上がった。

「ドロワット人め・・・っ!貴様らはどこまで卑怯なんだ・・・っ!」

白い手がより一層白くなるまで握りしめ、ソロモンは蒼の目に殺気を宿す。

「余の神風を奪還するっ!」

高らかに宣言した、その透き通るような声音に周りは驚いた。

「王っ!いけませんっ!これは敵の策略ですっ!」
「構うものか!何が何でも・・・決してアルテミスをドロワット如きに汚させはしない・・・っ!」

今頃アルテミスがどんな目に合っているのかと想像する度、怒りが支配した。
まるで金塊でも見ているような髪と、サファイアの宝石を思わせる、誇り高き青の瞳。象の牙のような白い肌と、花の芳しさを染み込ませたアルテミスを、いくらドロワット人であってもその魅力に気が付かないはずが無い。
性欲に疼く、歪んだ視線が一分一秒たりとも彼女に注がれていると予想する度に、自分のことの様に背筋が凍りついた。

なんとかしなければ―――

焦りが怒りになり、怒りが復讐の業を煮やす。

「王っ!どうか血迷ったお考えはお捨て下さいっ!あなたはゴーシュ最後の王―――神風様とて、あなたがそのような軽薄な行動を起こす事をお喜びになるとは思いませんっ!神風様だけでなく、もしもあなたまでが捕まったら―――それこそ我等ゴーシュ人がどうなってしまう事か・・・っ!」
「お考え直し下さいっ!」
「王」
「王っ!」
「ダメだっ!アルテミスがいなくなってしまえばっ・・・!」
「―――あなたは王<キング>ですぞっ!全てを束ねる主ですっ!あなたの手には数百、数千の命が掛かっている事をお忘れになってはなりません!!我々に退歩するだけの余裕も兵力も無いのですぞ!!」

悲鳴にも似た声で血相を変えるゴーシュ人達に、ソロモンは、はっと息を呑む。
瞳孔を小さく揺らし、ようやく理性を取り戻したソロモンは、力なくよろよろと王座に座り込んだ。
背もたれに深く横たわり、片手でこめかみを掴む。
伏せた睫毛が悲しげに揺れ、柳眉を寄せてその心境を鮮明に語っている。
ゆっくりと息をつき、ソロモンは小さく謝罪した。

「・・・すまない」

その言葉に誰もがほっとしたような様子で安堵する。

「―――きっと、神風様はご無事です」

そんな根拠も無い事を言う宰相に、心の内でソロモンがそれを否定した。
敵に捕まった者達がどうなるかなど、既に決まっているようなものだ。

こうしている間にもアルテミスは―――・・・

ソロモン王は血が出るほど唇をかみ締め、ただただアルテミスの無事を祈った。
今はもう―――祈る事しか出来ないのだ。



**********



アルテミスは捕まって直ぐに、ドロワット城の東地点にあるドロワット領へと連行された。
移動に1週間。その間、アルテミスは薬によって昏睡状態にさせられ、しかしあくまでそれはアルテミスの体を束縛するため。
睡眠薬も痺れ薬にも抵抗がついているアルテミスに、あえて殺してしまうかもしれないその薬を投与したのは、ドロワット王の命令だった。

「―――ジェ・アストロスト<起きろ>」

突然と重かった意識が現実に強制で戻された。
一体何が起こったのだろうと考えるよりも早く、再び水が頭から被さる。
油断したせいで、鼻から水が入り、つんとした痛みに襲われた。
しかし相手は水を掛ける事を止めない。
何度も何度も水を掛けられ、空気を吸い込もうとするタイミングを何度も逃す。
逃れるように冷たい石畳の床から体を起こそうとするが、体が鉛のように重くて立ち上がれない。
空気が吸いたい。
だが、相手はそれを許さない。
しかしようやく相手の気が済んだのか、水が襲い来ることは無くなった。

「ごほっ・・・っ!げほ・・・っ!」

アルテミスはありったけの空気を吸い込み、むせ返る。
ただ真上から見下ろす視線を感じながら、アルテミスは呼吸を整えた。
ぜぃぜぃと、やはり心拍数は上昇している。
目じりに涙が浮かび、疲労でも感じているように体は上下に揺れた。

「・・・っ!」

よろよろと、アルテミスが真上に顔を持ち上げる。
水を掛けた張本人の姿がぼんやりと目に浮かび、視点を合わせ様と必死に頭を働かせた。
だが、相手の顔をはっきりと見るよりも早く、髪に強烈な痛みが走る。

「っ!?」

背後から、別の誰かに髪を荒々しく捕まれたのだ。

「離せ・・・っ!」
「立てっ!」

アルテミスは無理やり体を起こさせられ、石畳に両膝を立てるような形になる。
両手で髪を掴む片手を引き剥がそうとするが、力が入らず結局はなされるがままだ。
髪を掴まれたまま、首がしっかりと固定され、ここでようやく水を掛けたのがドロワット人の兵士である事を知った。
現実を意識した途端、鈍い痛みが腹から脳へ走る。

―――神風様・・・

アルテミスは、何かに反応して目を見開いた。
途端にウォルターの顔が、冷ややかに微笑んで消え、ようやく現実に起こった事を理解する。
そうだ。
裏切られた。

信じていた、その男に―――

この怒りは誰にも理解できるはずが無い。
アルテミス自身も初めて感じるその憤りは到底収まるはずも無く、悲しみも諦めも何も感じないまま、怒りしか心を支配していない。
という事は、ここは敵国の牢の中。
この石畳の感触も、暗闇を仄かに照らす松明も、番人だと思われる奴等の存在にも納得がつく。

―――負けたんだ

そう改めて自覚すると同時に、自分が生きたまま捉えられた事に、危機感のようなものを感じた。
相手は、この自分を生かして情報を収集しようとしているのだ。

主であるソロモン王の居場所を―――

そのためにはどんな拷問を受けるかも分らない。
そのためにはどんな屈辱を受けるかも分らない。

そんな恐怖を振り払うように、アルテミスは声を荒げた。

「離せっ!」

どうにかこの呪縛から逃れようと―――しかし、既に疲れ果てているアルテミスにそれは叶わなかった。

「静かにしろっ!ゴーシュのメス豚がっ!」

髪を掴んだ男が耳元で怒鳴る。

「うるさいっ!離せぇえっ!私に触れるなっ!汚らわしい!」

両手を使って、髪を掴む男の手の甲をひっかく。
だが、相手が着用している手甲が全てを受け流し、相手にまったくダメージを与える事は無い。
ならばもう、叫ぶしかない。

「離せぇえええっ!」
「―――ちっ。うるさい女だ」

舌打ちをしたのは目の前にいる、水を掛けた男だ。
近づいてくるなり頬を平手打ちにする。
頭を強く叩かれたような、荒々しい痛みに目の前が歪む。
言葉を失い、ただ呆然としてしまった。
それに相手は優越感のようなものを感じたのだろう。
兜から覗く口元をにやりと歪め、胸元を荒々しく掴んだ。
髪を捕まれる痛みも忘れ、ただ憎しみにアルテミスは目の前の番人を睨む。

「―――なんだ、その目は。・・・お前はどうやら状況を理解していないようだな?お前は捕まったんだよ。神風殿」

皮肉を言うように最後を耳元で囁いた。
その時、耳の淵をなぞる様に舐められ、気持ち悪さに全身を使って暴れる。

「触るなっ!」
「・・・生意気だなぁ」

しかしその声はとても心地良さそうで、アルテミスの顔を固定するように顎を掴まれた。
右にも左にも逃れられない中―――番人は本心に迫った。

「ゴーシュの王は一体どこにいる?一体どこにお隠れになっているのかな?」

アルテミスは絶対に答えない。
ただ、口を閉ざして相手を睨みつける。

「素直に応じてくれれば、少なくとも死ぬ事は無い。どうだ?爪を剥がされるのは嫌だろう?熱い鉄板に押し付けられるのも怖いはずだ。拷問はそれだけじゃないぞ?一日中水攻めの刑や、針のついた椅子に座らせられ、その上に錘を乗せられるんだ。馬に引きずられ、腕を切られ、皮膚を捲られるのを喜ぶ奴はいないだろう?」
「・・・」
「―――何か言う事は?」

アルテミスは男の顔に向って唾を吐き出した。
恐怖が無いと言えば嘘である。
本当は怖くて怖くて―――それでも、兄妹のように愛してくれたソロモン王を裏切りたくは無い。
番人の顔が、怒りで歪んだ。

「このクソ女・・・っ!」

アルテミスの態度が気に入らなかったのだろう。
相手は再び―――今度は左から殴るようにアルテミスの頬を叩いた。

「ぐっ・・・っ!」

唇を切り、堪えるような悲鳴を上げる。

「おいっ!そいつの頭をしっかりと掴んでおけ。こいつに立場の弁え方を教えてやるっ!」

その声は狂乱に似た笑いを含め、力任せの暴行は始まった。
容赦ない連続の平手打ちは女性という意識が相手に無いようで、その扱いもまさに奴隷そのものだ。
アルテミスはただ歯を食い縛って、その痛みに耐えた。
しかし事には限界というものがある。
痛みを感じたまま、アルテミスは気を失った。
拷問はやはり過酷なものだった。
爪は全て剥がされ、馬にも引きずられ、一日中水攻めの刑だって受けたが、アルテミスが口を開く事は無い。
業を煮やした兵士達により、アルテミスは他にも体中に拷問の傷と、屈辱の痕を残されたものの、何故か髪を切られる事は無かった。

―――まるで『誰か』にそう命令されたかのように・・・

しかしそんな事を悠長に考える余韻など無いアルテミスは、ただ屈辱に耐え、一度も泣く事無く数日を過ごした。
永遠とも思える地獄の日々に変化が訪れたのは、アルテミスの前に『その男』が再び現れてからである。
訳も分らないまま、強制的に小さな刻印を胸に押され、アルテミスはあまりにもの激痛に耐えかねて気絶してしまった。

「―――よく、耐えられたものだ」

意識が、うっすらと戻る。
焦点が合わないかのように、周りの景色はぼやけていて暗い。

「・・・っ!」

痛みを堪えて歯を食い縛る。
胸が、痛い。
肉を焦がしたような匂い。
酷く不快な頭痛、体の痛みが襲う。
体中が痛いため、奴隷としての刻印はあまり痛みとして認識されていなかった。
今は朝なのだろうか。昼なのだろうか。
血の匂いが充満した部屋。窓など無く、湿気にじめじめしている。
痛みも既に麻痺し、気力も残っていない。
だが、その声にアルテミスは壁に寄り添ったまま視線を牢の外へ向けた。

「・・・っ・・・う」

鉛をつけたような体だけは未だに重く、それでもアルテミスは冷たい床に手をつけて起き上がる。
体が重いと思ったのは、どうやら精神的なものだけではないようだ。
じゃらりと、鉄が擦りあうような音が重さを含んで手と足が思う通りに動かない。
起き上がるだけの自由はあるようだが、後ろを振り向いてみると両手両足全てに枷がつけられ、少し錆びのある鎖が壁と繋がっていた。
目の前をよく見てみれば、そこには黒い鉄格子が壁から壁を囲い、左右には鉄色の煉瓦が敷き詰められている。

暗闇に等しいこの空間―――

ぱちぱちと、音を立てて燃える火の音と灯りが目の前―――牢の外にいる男の姿をうっすらと空間に浮かばせた。
アルテミスは、目を見開く。
同時に怒りから、憎しみから、忌々しそうにその名を呼ぶ。

「ウォルターナ・・・っ!」
「―――お目覚めのようですね。神風様。・・・いや、もうあなたは不敗の神風では無い。ただのアルテミスだったな・・・」

皮肉に笑みを浮べるウォルターの服装は、黒に統一されたドロワット人の軍服だった。
その地位が高い事を示すように、胸元に光るバッチの星が5個ある。
5個―――その数は王の次に匹敵する数字だ。
それが指し示す事と言えば・・・。
はっと、とある情報を朦朧とした意識の中でも思い出し、驚愕と新たな怒りにアルテミスは弱々しい声を低くする。

「―――貴様・・・っ。ドロワット王の息子だったのか・・・っ!?」

自分でも言って驚いた。

王の息子―――?

息子自らが先頭に立って戦っていたのか?
しかし、ウォルターは是も非も言わない。
ただ、冷ややかにうっすらとその口元に笑みを零した。
ウォルターがそれを肯定するような頷きも言葉も無かったのだ。
アルテミスの言葉を受け流し、ウォルターは床に這い蹲るアルテミスをじっと見つめる。

「―――アルテミス。チャンスを再び与える」

アルテミスは鼻で笑った。
侮蔑と怒りに歪んだその笑みは強がりのようにも見えるだろう。

「はんっ。貴様の言う事に貸す耳はとうに無い。失せろ・・・っ!」

ウォルターは無言だった。
その表情に何の色も無い。
しかしアルテミスには、それは哀れんでいるように見えてしまい、かっと屈辱から顔が赤くなるのを知った。
それを否定したくて、アルテミスは溜めていた怒りを吐き出すように声を荒げる。

「笑いに来たのだな!ウォルターナ!笑いたければ笑えばいい!そして精々悔しがれ!貴様が望む、我等の王の居場所など分らないまま私は死ぬっ!残念だったな!ドロワットのクズが!」

ウォルターはやはり無言だった。
その翡翠の瞳がいつまでも自分を見つめていると思うと、溜まらずその視線から逃れたいような衝動に駆られる。
だが、既に拷問によって苛められた体は痛みでほとんど動かない。
睨み返すが、するとウォルターは目線を合わせて顔を覗き込もうとするのだ。
それがどうしようもなく嫌だった。

「殺せっ!殺せウォルターナ!貴様の顔を見るぐらいなら、私は死んでやる!殺せぇええっ!」

アルテミスは狂ったように叫び始める。

あたかも狂乱したかのように―――

正直、もう拷問に耐えるのは嫌だった。
あんな痛い目に合うのは嫌だった。
何度も思った。
何で自分がこんな目に・・・と。
自業自得とは言え、そう思わずにはいられない。
ただ逃げたくて逃げたくて―――でも逃げられない。
ならば『死』という逃げ道でもいいから逃げたかったのだ。
それでも、いくらアルテミスがそれを訴えようともウォルターがそれに動じる事は無かった。
しきりに叫んだ後、もう叫ぶ気力すらなくなった頃、アルテミスはようやく息をついた。
肩を上下に揺らし、こんな情けない姿を晒す屈辱に目頭が熱くなりそうになり、いつものように乾いた唇をきつくかみ締める。
あれだけ騒がしかった牢獄に、しばらくの沈黙が生じた。
もう暴れるのも疲れた。見栄を張る事も、気高くいる事にも、疲れた。

疲れ果てたのだ―――

だから、アルテミスは目の前にいるが裏切り者である事も忘れたように、ポツリと小言のように訴える。

「―――私を、もう解放してくれ。十分だろう?私は、本当に王の居場所なんて、知らないのだから・・・」

自分でも情けないと思った。
弱々しい声で、そんな声を出す自分にもほとほと呆れた。
そんな声で、目の前にいる憎き男に訴えるなんて、早く死んでしまいたいと本気で思ってしまう。
今言った事で間違いは言っていない。
ソロモン王は転々と居場所を変えている。
常に一箇所にいる事がもっとも危険であり、だからこそ一度来た場所には二度と来ないようにしていた。
いくら親しいアルテミスでも、ソロモン王と会った事があっても居場所までは分らない。

いつだって、ソロモン王の方からアルテミスに会いに来ていたのだから―――

「――― 一思いに、殺してくれ・・・」

今までの疲労が一気に襲い掛かった。
体が沈みだし、アルテミスはそのまま床に顔を伏せる。
もう―――全てどうでもいい・・・
体も心も、もうボロボロだ。

「―――ダメだ。死ぬなど、まだ早い」

今まで口を開かなかったウォルターが、そう告げた。
アルテミスも、ウォルターがそう言う事を予想していたため、何も反応しない。
アルテミスだって、もしもウォルターと同じ立場にいたら、敵の重要情報を持っているかもしれない人物をそう簡単に手放す事はしない。
だからウォルターの考えが分っていると、『思っていた』。

「・・・」
「―――選べ」

最初と同じような事を、ウォルターは言った。
今度は無言でそれを聞く。

「食事と怪我の手当てと、どちらを先にする?」

ついに耳が逝かれたかと、アルテミスは本気で思った。





推敲更新日

2007年9月14日

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