神風のアステ<第4話>






―――俺を手なり足なり使ってやってください

頭を下げ、仁王立ちの状態で彼はそう言った。
唯一占領されなかったゴーシュの下町で女性達に囲まれ、聞いていて恥ずかしくなるような巧みな口説きはまるで甘い蜜のように女を溶かしていく。
その笑みは屈炊く無く、まるで子供のように無邪気だ。
その口調は緩やかなテノールの、心地よい詩を歌う吟遊詩人のように誰をも魅了するだろう。
性格はまさにカメレオンの如く直ぐにどんな環境へでも溶け込め、悪く言えば八方美人と言うのだろうが、誰一人としてそれを短所として指摘されない完璧な男だった。


―――そう


それが無性に腹立たしかった。
まるで女性を軽く見られているような錯覚と、難なくあの男の言葉に顔を染める女性の気持ちが分らず、自分だけはあの呪縛に囚われないよう努力した。
自分を慕っている男達の、疑うような目線と、その整った顔に対する嫉妬の目つき。
しかし、それも直ぐに友となった事を裏付けるように、共に酒を飲んでは笑い合っている。

―――あいつはさほど悪い男じゃありませんぜ・・・

それに彼の身につけていた銀淵の止め金具には、しっかりとゴーシュの刻印が刻まれていた。
彼は同じくしてゴーシュ人であり、同胞なのだ。
だから、彼を追い返す理由も無ければ、否定する理由も無い。
けれど自分だけは決して認めない。
最初こそ、その存在を嫌悪し、怒鳴り散らし、傍による事すら許さなかったが、やはり月日と言うモノは溝を埋めていってしまう。

―――神風様

いつの間にか、彼の言葉に答え、彼の苦笑に微笑みかけ、彼の存在が隣にいる事にすらなんの違和感も持たなくなっていた。
突然とやって来た男は、すんなりと『神風軍』に溶け込んでしまったのだ。

そう。



それはまるで、風のように―――・・・




**********




「・・・。あれから、もう3ヶ月ですか」
「お前が私の前で跪いたのが―――か?」
「失礼ながら言葉選びがさほどお上手ではありませんね。せめて『自分達が出会ってから』とお答えしてくださるかと期待していたのですが・・・」
「それは残念だったな」

少女の楽しそうな声が、ゆっくりと笑う。
空は灰色の雲で覆われ、青空どころか太陽すら見当たらない。
白息がその寒さを物語り、しんしんと、小雨の粒が体を弾いていく。
血塗れてしまった重い鎧は向こうで剥ぎ取ったために今は一枚のブリオー<上着>を着込み、白銀の兜をとった蜂蜜色の髪だけがしっとりと濡れていた。
馬が歩く音は例え柔らかい森の道と言えど、森の木々によってぽこぽこと複数音響する。
慣れた手つきで緩く馬を操る手綱を掴み、少女の隣にはウォルターが存在していた。
既に戦場の騒動がこの先で本当に起こっていたのかと聞きたくなるほど、だいぶ深いところまでやって来た。
ただ目の前には永遠と、森の人気が少ない獣道のような場所を登るような感覚で進んでいる。

「―――で?話とはなんだ?」

もうこの辺でいいだろうと、少女が軽くウォルターに視線を投げかければ、彼は穏やかな翡翠の両目を真っ直ぐとこちらに向けた。
何もかも映し出しそうなその瞳には少女の姿が映り、まるでガラスのような透明感を見せている。

「―――あくまで噂なんですが、ドロワッド人に処刑されたとされる、ゴーシュ王の子息『ソロモン王』がご存命でいらっしゃるとお聞きました。それは真ですか?」
「・・・。他に何を聞いた?」

僅かに、少女の声音が強張った。
それを気づかない様子で、考えるように空を見上げながらウォルターは答える。

「いえ。本当にただの噂なんですが、貴方と機密で通じているともお聞きました。・・・それは本当なんですか?」

少女は答えない。
ただ黙止し、ウォルターの顔を見ぬまま真っ直ぐと前を見ている。
軽かった雰囲気が重くなり、それを変えるようにウォルターは話題を変える。

「―――神風様は、もしもこの戦いが終わったとすれば、どうされます?」

少女は驚きで目を丸くする。
答えを探すように、柳眉に皺を寄せて視線を俯き加減にした。


―――考えた事が、無かったのだ


だから口が重くて答えられない。
答えなくてはならないはずなのに、そんな簡単な事すら容易には言えなかった。

「・・・」
「この戦いで勝利した時、あなたは一体どうなさいますか?」

もう一度、ウォルターは問いかけた。


―――そこから先を考えた事があるか?


彼の言葉からはそうとも捉えられる。
今までドロワット人を倒し、ゴーシュ人の誇りを取り戻す事しか考えていなかった少女にとって、それは難題だった。

なんせ、彼女はそのためだけに生きているようなものだったから―――

女を捨てる覚悟の上で、男に混ざって生きていた。
復讐のために生き、復讐のために死ぬ。
それがこの『神風』と呼ばれた少女の強さだ。
相手を殺せるならば、自分が死んでも構わない。
そんな勢いと気迫は、生に縋りつく本能がある人間からして見れば強敵以外の何者でもないのだ。

「・・・。お前は、どうするのだ?」

少女が答えぬまま、逆に問いかけてみれば、難なくウォルターは答えてみせた。

「―――綺麗な奥さんを娶り、子供達と一緒に森に家を建てて暮らすんです。不自由をしそうですが、自給自足での生活が望ましいですね。家の中では子供達が笑い、妻が手作りの料理を俺に出してくれる。・・・それが『夢』です」

少女は目を見張る。
なんともそっけない人生計画に、少女は深々と息をついた。

「・・・。なんとも質素な将来を描いているもんだな・・・」
「いえいえ。これが男の最終地点目標ですよ。綺麗な女性。可愛い子供。自分だけの家。まさに男の理想ですね」

そんな事をひょひょいと答えたウォルターは楽しそうに微笑んでいる。
まるで無邪気な子供の笑顔を見せる彼に、少女はどうにもならないと息をついた。

「―――で、神風様はどうなされるのですか?」

再び話しは少女に問いかけられた。
決して逃がさないと言わんばかりの、それでも静けさを持つ水のような声音に少女は素直に答える。

「考えていない」
「そんな難しく考えなくてもよろしいんですよ」
「残念ながら、私にはそんな将来を夢みるほどの余裕はないのだ」
「―――ならば、ここでそれを決めましょう」
「・・・?」

ウォルターの馬が、深い森を抜けた平たい斜面で立ち止まった。
目の前にはまるで青みの無い泉が、無風である事を肯定するかのように陰陽もなくそこにある。
少女の馬もそれに習うように足を止め、暗い空が良く見える森の開けた地を注意深く見渡した。
敵が潜んでいれば―――と、一応は警戒心を怠らずに目を光らせておく。

「・・・。ここで馬を休ませながら、お話いたしましょう」

戦闘後で負担をかけてしまった愛馬に跨っている影響もあり、些かその歩く速度が緩やかになっているような気はしていた。
帰り道の事もあるし、少女はそれに従う事とする。
少女が馬から下りれば、既にウォルターはすぐ横にいる状態にまで走るように迫っていた。
いつになく、まるでこれから戦闘でも起きるような彼の行動の早さに、少女は今度こそ不審の視線でウォルターを見上げる。

「―――なんのために私をここに呼んだ?」
「あなたに選択させるためです」

目と鼻の先―――言葉通りの現状で、喧嘩を売るような視線だけ絡み合う。
相手の呼吸すら皮膚をなぞる近さの中、背後に馬がぶるる、と首を振った。
ふいに、腰が砕けるような囁きで少女の名前を呼んだ。

『アルテミス』―――と・・・

途端に、まるで鬼神のような形相へと少女―――アルテミスの表情が険しいものへと変わる。
殺気に等しい瞳で爛々とウォルターを睨みつけた。

「その名前で呼ぶなと言っただろっ!?」
「―――アルテミス・アドロード・J・マスタック。ゴーシュ名門貴族の一つである『アドロード』家の第五子。そしてゴーシュ人が敗戦した際、ドロワッド人にその家族を虐殺された中で生き残ったただ一人のご令嬢でもある」
「お前・・・っ!」

一体何を知っていると、問いただそうとするものの、体が動かない。
何を考えたらいいのかと頭が混乱し、答えを見出せぬまま、ただ人が変わったようなウォルターの瞳を凝視した。


何故知っている?


自分の正体を知っているのはただ『1人』なのに―――


とてつもなく、嫌な予感がする。
それは胸騒ぎに近い。
それ以上に、指摘された過去の記憶が蘇るようで、体を無意味に震わせた。

「・・・俺がその名であなたを呼んだ時、あなたは言いました。『その名前は捨てた』と。それはこれが理由ですか?過去と共に、女性の名前を封じた訳ですね?」
「そんな事はお前に関係ないっ!」

食い入るようにアルテミスの、男すら身を竦ませる険しい形相がウォルターを射抜く。
しかしそれに動じるウォルターではなかった。
構わず、ウォルターは口説くような囁きを交えて、アルテミスにまた一歩近づく。
馬に逃げ道を遮られ、アルテミスはただ敵意を向けた睨みで彼を見上げるのみだ。

「下らんっ!」

私は帰るぞ、と意表するように背を向いた途端、腕を掴まれた。
それを意識するよりも早く、ウォルターの力強さに直ぐに振り向かされ、アルテミスは目を見開く。
まるで自分の方へ引き寄せるような力強さに、改めて男と女の違いを垣間見て、同時にそれを理解させられた事へと気まずさからアルテミスは自分を奮い立たせた。

「離せっ!ウォルターナっ!」
「―――アルテミス・・・」

もう一度その名を呼ばれ、今度は頬を朱に染めてしまう。
何故そんな風になってしまうのかと、そんな単純な事すら気づかぬまま、アルテミスは捕まれた手を必死に振り解こうとした。
握り締めるほどの力は無いものの、逃がさないとばかりの手にアルテミスはうろたえてしまう。

こんなの、振り払うのは簡単なのに―――

その簡単が、出来ない。


(何故だ・・・っ!)


まるでアルテミスの戸惑いを理解しているように、ウォルターは気があるような目線でアルテミスを見つめた。

「あなたが戦う必要なんてない―――戦など、男に任せればいいのです。女性はただ、男の帰りを辛抱強く待っていればよろしいのですよ」
「誰が私を女として扱えと言った・・・っ!」
「あなたは、女性だ。アルテミス」

甘い吐息はアルテミスを溶かすほど熱く、別の意味で頭に血が上った。

女性と自覚しようとしている自分が、許せない―――

呪縛から抗うように、アルテミスはそれこそ地が裂けそうな怒涛の声を張り上げた。

「私は男になった!女として見るなっ!これ以上私を侮辱すれば、お前といえど許さないっ!」
「―――髪を切らぬあなたがそれを言いますか?」

アルテミスは、はっと声が出なくなる。
虚を突かれたような心境が、振るい立たせていた自分を素に戻そうとした。

「・・・」
「あなたは、女性です」

諭す様な囁きは、何よりも説得力があり、アルテミスはそれに反撃出来ない自分がどうしようもなく苛立ってきた。
復讐に心を煮やし、誇りを失わないアルテミスは決心したようにウォルターを見上げる。


―――自分は、男になる


「・・・。髪が短ければ、お前は私を男として見てくれるのか?」

そう尋ねれば、今度はウォルターの方が豆鉄砲を食らったハトのような顔をした。
しかし、直ぐに元の真顔に戻り、彼は予想しなかった行動に出る。

「―――では、あなたが本当に男になれるか、試してみましょう」
「何っ?」

突然と、腕を取らぬもう片方の手がアルテミスの胸へと伸びた。
それに気づくよりも早く、隠せない女性独特の膨らみを荒々しく掴んだのだ。

頭が真っ白になるのを知った。

恥ずかしさから一気に顔が熱くなり、こみ上げる恐怖が少女の喉下から悲鳴が上がりそうになる。
しかし、また恐るべきスピードでその口元すら何かに塞がれた。


―――混乱で、頭が破壊されそうだ


心臓すら大きく鼓動しすぎて跳び出しそうになり、異様に近いその顔を瞬きを忘れて凝視する。
その行為に経験が無い訳ではない。
だが、こんな大胆不敵な事をされては、いくら女性を捨てたアルテミスと言えど、うろたえないはずが無い。
一度町娘達が同じ事をされれば、恐らくそれに抗う事をしなくなる。
だが、アルテミスの責任感がそれを許さない。
なによりも、何かが訴えた。


『危険だ』―――と


理性よりも早く体が動き、アルテミスはその暖かさを振りほどくように噛み付いた。
途端にウォルターの体が危険を感じてか後ずさり、血の出た唇を手の甲で拭う。
怒る事もしないまま、ただ感情を宿さない目が笑ってアルテミスを目視している。
自由である右手が腰ベルトに装備された長剣の柄を握り、アルテミスは羞恥に顔を赤くしながら、ただ憎らしげにウォルターを睨んだ。
疲れた訳でもないのに、何故か呼吸が苦しく、肩を大きく上下に揺らす。

「貴様・・・っ!」

言いたい事はたくさんある。
だが、それが言葉として出てこない。
アルテミスが唯一出来る事とすれば、ただ黙って相手を睨む程度だ。
それを見て、ウォルターは息をついた。

「これでお分かりになったでしょう?たとえあなたが髪を切ったとしても、あなたが女性である事実に変わりは無い」
「だからなんだ・・・っ!」
「―――ですから」

ウォルターの表情から、一切の感情がなくなった。
途端に、背筋が凍りつくほどの威圧を感じ、ほぼ硬直状態になる。
柄を握る手から力が抜け、ただ獲物を狙うような視線から逃れられなくなった。


まるで、蛇に睨まれたカエルのように―――


目的を告げぬまま、ウォルターは静かに血があふれ出す唇で言葉を作る。

「―――ソロモン王は一体どこへお忍びなさっているんでしょうか?」
「知らんっ!」
「あなたなら知っているはずだ。ソロモン王の寵愛を受けた、あなたなら・・・」

声音が低く、まるで答えねば殺すと言っているようなウォルターの目線からアルテミスは逃れない。

「お前・・・っ!それを知ってどうするつもりだっ!」
「質問をしているのはこちらだ―――」

―――違う

その声音に、アルテミスと関わった時の優しさなど見当たらない。
まるで任務に忠実な番犬のような眼差しに、殴られたような衝撃を受けた。


―――可能性が、深くなった・・・


息苦しい空気を吸うように、アルテミスは強張った表情へと転じる。

「たとえ知っていたところで、お前には言わんっ!仲間の1人にも、だ・・・っ!」

それを聞くと、ようやくウォルターの表情が柔らかなくなる。

「そうですか。それを聞いて安心しました」
「―――どういう意味だ・・・っ!」
「―――知ってましたか?あなたと出会う前、俺は『死神』と呼ばれていたんですよ」

その声音はどこかぎこちなかった。
表情も変わらないように見えても、強張っているようにも捕えられる。

「―――俺がいた場所では、必ず血が流れる。そんな皮肉から『向こう』でそう呼ばれていたんです。―――いや、それは今でもそうなのでしょう」
「ウォルター・・・っ!お前は一体・・・っ!」



―――何者だ



アルテミスの隻眼が大きく揺れ、殺気を飛ばす瞳が細まる。
片手に握る柄をもう一度力強く握り締め、緊張の色が表情を険しくさせた。

「―――慈悲をかけましょう」

声音と表情はまるで優男を思わせるが、偉そうな口調はアルテミスに確信へとじょじょに誘い始める。
みしりと、まるでガラスにヒビが入ったような心境の中、相手が何を言うのかと睨んだ。
一拍、二拍の後―――ウォルターは言った。


「『俺を選んでくれ』と言えば、あなたは国を捨ててくれるだろうか?」
「一体何を言っている・・・っ!?」
「―――言い方を変えましょう。味方になるか、敵になるか。選んで下さい」

それは、断固とした声音。
同時に、彼が『敵』である事をアルテミスは知ってしまったのだ。
ヒビはやがて大きくなり、それは破片として砕け散った。

―――あの優しさは、何だったのか・・・?

深く入られすぎた故の、傷―――

じわじわと、それは大きく胸を痛める。



「―――は・・・っ!」

アルテミスの顔が、怒っていそうな、泣いていそうな、笑っていそうな表情を作り、強情な彼女の青が水を得たように潤いを含んだ。
ウォルターはただそれを見つめ、辛抱強く回答を待っている。

「・・・っ!お前は、それが目的でここまで連れて来たんだな・・・っ!」
「ええ」
「私の心に浸け込み、私を・・・困惑させるために・・・っ!」

ウォルターは、彼女の最後の希望を断ち切るように、翡翠色の瞳を瞼で隠した。

「―――ええ」
「・・・っ!」
「今頃、俺の兵が『神風軍』を制圧している頃でしょう」

真新しい煙の臭いにはっとして、アルテミスは即座に『神風軍』が駐留している方向を見上げた。
空を覆う黒い煙。それは上がってしまった雨を生んだ雲へと溶け込んでいく。
アルテミスは、ますます泣きそうな顔をした。

自分を、彼らから離すために―――
そして、自分を孤立した状態にさせるために―――


―――騙された・・・


そう自覚した途端、激しい憎しみの念がどす黒く爆発した。

「死神・・・っ!」

咄嗟に握る剣を振り上げようとしたが、ここでアルテミスは『ある事』に気づく。
ウォルターは最初からそれを知っていたように、指摘した。

「・・・。あなたに武器は無い」

恐る恐る、抜けない剣を見下ろす。
その剣は、既に抜けるはずの無いものだった。
すっかり戦闘後の安堵感から、剣の手入れを忘れて、高を括っていた自分に激しい怒りを覚えた。
剣が抜けないのは、人の血が固まり、まるで接着剤のような効力を発揮しているためである。
複数の気配を感じ、アルテミスは辺りを注意深く見渡した。
いつの間にか―――本当に気づかぬ間に、息を殺す気配がこちらをじっと観察するように視線を向けている事を、第六感のようなもので悟ると、今度こそアルテミスはその場で崩れ落ちた。


囲まれている。


それは、『神風軍』崩壊の瞬間だった。


―――王、愚かだった私はここまでのようです・・・


自分を溺愛してくれた、年近い主にそんな弱音で最後を告げる。
男になりきれず、そして女になりきれなかった自分は、こんな情けない結末で終わってしまうのだろう。
そう自覚すると、ついにアルテミスは涙を零した。

「―――ああ・・・っ!私は、何て馬鹿だったんだろう・・・っ!」
「まだ、返事を聞いていない」

敬語ではなくなった、低い声にアルテミスは涙を拭わぬまま顔を上げた。

「大人しく協力すれば、その命は補償出来るだろう。・・・奴隷に落ちるより、俺の愛人でもやっていた方が明らかにいいはずだ。―――少なくとも、俺に心を許した仲だろう?」
「貴様・・・っ!」

アルテミスの憎らしげに、今にも飛び掛りそうな険しさを秘めた表情。
青筋を立てて、眉間に皺を寄せ、血が出るほど唇をかみ締めてから、ぼやける視界の中、アルテミスは声を張り上げた。

「ウォルターァアアアっ!」

それがアルテミスの答えだ。
たとえこの場で死のうとも―――決して彼だけは許せなかった。
1発殴れれば、それだけで良かったのだ。

許せない―――

彼女の悲しみは怒りに支配され、涙は風に消えてなくなってしまう。
拳を振り上げて襲い掛かろうとした―――が。
怒り狂い、悲しみに打ちひしがれたアルテミスを仕留めるのに、ウォルターは呼吸をするのと同じような感覚でその溝の深く拳を落とした。

「・・・ぅ・・・っ!」

小さく悲鳴を上げて、アルテミスの体は崩れ落ちる。
しかし地面に叩きつける前に、それをウォルターが救い上げ、肩に担ぎ上げた。
だらりと下がる両手。髪が地面に付きそうになり、それでも辛うじて届かない。
沈黙が生じ、ここでようやくウォルターは息をついた。
緊張感を解いたウォルターの元に、忠実な工作員達の1人が森の茂みから現れる。
後ろでご主人を失った馬がぶるる、と再び唸る中、黒の外套に身を包んだ工作員はその場に膝をついて頭を下げた。

「―――ウォルター様、全て完了致しました」
「ご苦労だった」

ウォルターの緩んだ翡翠に潜む死神が静かに笑う。


―――『神風軍』がここに来る


その情報を聞きつけ、ウォルターは自ら神風の少女を陥れるためにその軍へ近づいた。

まるで、自分がゴーシュ人のような素振りを見せて―――


そう―――彼女に近づいたのも、『計画』なのだ。


しかし・・・。

ウォルターは息をつく。
その吐息には、苦々しい色合いがにじみ出ていた。


「―――彼女は、俺を選んではくれなかったようだ・・・」


工作員の男は、ウォルターの言葉に少し笑った。

「味方にはなっていただけなかったのは存じております。しかし、あなたはこの女を困惑させる事には成功し、こうやって生け捕りが出来ました。お見事でございます」

立派な戦略だと、その工作員は言う。
再び、ウォルターはアルテミスに見せた事が無い、冷たい微笑を浮べた。

「―――神風と呼ばれる強者とは言え、ただの女である事には変わりない。・・・一度甘い言葉で囁けば、女は直ぐに心を許すものだ。・・・実に騙されやすい生き物で、こちらとしては好都合な話しだった」

工作員は、彼の言葉に満足したような笑みを深めた。

「さすがは、我等の『死神』です」

ウォルターの瞳に、僅かな『色』が浮かんだ。


「―――帰還する」


それはもう、神風の『右手』ではなく、ドロワッドの『死神』と称される、指揮官の顔だった。





推敲更新日

2007年9月14日

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