世界で一番・・・<第1話>






この世で一番綺麗なモノ―――・・・





それは一体どこにあるというのだろう。

求めなければ・・・探し出さなければ―――

濁りのない完璧な青―――水面に映っていたのは精悍な顔立ちをした青年だった。
貴公子然に溢れたその青年の双眼には深い闇が宿り、触れれば儚く溶けてしまう雪結晶のような印象が、彼を幽玄に見せる。
呼吸を忘れ、自我さえも失って見入ってしまいそうな美麗を誇る容姿だったが、今は長い長い追想の果て―――悲観に暮れながらも、どうしようもできない怒りに流されて歪んだ。
それは彼の纏う雰因気を瞬く間に変えて溶かす列火のように、今は誰も寄せ付けない気迫に満ちている。

青年が嫌悪感を露わに睨む先―――そこには覗きこむように見下ろす存在があった。

しかしその正体は、青年とは似ても似つかない恐ろしい『化け物』。

爛々と光る憎悪に歪んだ紅蓮の瞳は、それを見た者の本能を震わせる、忌み嫌われた色<赤>。
そうでなくても、化け物の持つ赤い鱗や悪魔のような翼が見た目の印象を醜悪にしている。
ふいに化け物は泉に向かって手を伸ばした。
その手も爬虫類のような鱗で覆われ、先には白く鋭い爪が伸びている。
水面にしか存在出来ないその青年に触れようとして―――そして対象の相手も化け物に縋るように手を伸ばす。
だが二つが交差した瞬間―――水が波間を作って揺れるだけで、決して触れあう事はなかった。

それでもすくってすくってすくって―――

しかし何度やっても同じであるその行為に飽きて、最後は長い尾びれで青年をかき消すために、ばしゃりと音を立てて水面を叩いた。
青年の姿は水辺の波に歪んで消えて、そしてまた追い詰められたような顔をした青年と化け物は睨めっこをする。
化け物は再び手を伸ばそうとしたが、それも先ほどの繰り返しになると分かっているから、梃子のように力なく引っ込めた。

「―――誰にも『すくえる』訳がないのにな・・・」

砂利を含んだような太い声は、厭わしい低音。
希望を捨てきれない絶望のつぶやきだった。




**********




冬が終わったとはいえ、まだ銀化粧の景色が山の麓や川の縁などでちらほらと見受けられる。確かに身を縮めてしまう寒さは残っていたが、既に春の訪れを歓迎するように野花の芽が頭を出していた。
一見、人が暮らすには不自由する山々の間に、他国ほどの華やかな繁栄や文化の途上はないが平和の礎を守り続けている王国がある。

春こそが最も活気立つ国・アベルジ王国―――領土を巡る戦争を繰り返し、機械化が時流となった中で唯一自然のままを受け入れた暮らし方を守り続ける円満な歴史が続く国だ。

アベルジ王国には、他では見られない名産の花や野菜、果物があった。
きっともう少し暖かくなれば、年に一度しか咲かない花々を見ようとこの国を訪れる観光客で賑わう事だろう。

―――特に、客達が密かに熱気立たせている花がある。

数多ある花の中で、特に美しいと評判の花だ。

それはまだ幼く、開花までにはまだ時間がかかる。
けれど、もうそろそろ見た事もない大輪の花を咲かせる頃だろう…と言われているこの世でたった一輪の花―――まだ咲き切っていないけれど、十分に期待が出来るその美しさには、各国の王たちが頬を緩ませて恍惚し、同性でさえ嫉妬を勝る感嘆を洩らすほどだと噂されていた。

可憐な花のようだと詩人に歌われるのは、現・アベルジ王国の第三王女その人―――話はその王女を中心にして起こった。

それは朝日が差し込んだ頃合に起こった事件である。

「―――結婚は嫌よ」

笑窪を可愛く作り、無邪気に微笑む少女は重いドレスの裾を持ち上げて、まるでこれから冒険にでも出かける子供のように、ウキウキと楽しげな声を弾ませて、そう言った。
各国にも美しさで歌われる姫君は大勢いるが、危険な香りを漂わせても触れずにはいられないバラや、ユリのように神秘的な儚さを持つ美しさと、彼女のそれは種類が違う。
小さな蕾が一斉に咲き、大地に大輪を描く花々が咲くように笑うと、彼女の笑顔をそう比喩した詩人は上手いものだと頷ける、意気揚々とした美少女だった。
世間一般の王女の理想像とは違い、彼女の有り余るような活発さはアベルジ王国だけでなく、外国でも有名な話だ。
元気でよろしい事だと『事情』を知らない者達は笑顔でそう頷くだろうが、長くアベルジ王国の宮廷を支えてきた使用人達はそうもいかなかった。

近衛隊兵の一人が、緊張のあまりこくりと一度喉を潤した。
その額からは、長期戦によるストレスから冷汗を浮かべている。

それは一人だけではない。

周りにはその近衛隊兵と同じくして数人の使用人たちが同じように立ち往生していた。
その顔にも余裕はなく、瞬きさえ惜しいとでも言うように焦っているようだ。

彼らの視線の先―――そこには出窓の淵に立っている少女がいた。

彼女こそ、アベルジ王の第三王女…噂の花の姫だった。

背後には白い淵枠に収まった窓が全快に開かれていて、少しでもバランスを崩れれば彼女はあっけなく窓の外へ落ちていく事だろう。
しかも窓の外に広がっているのは山の頂から見るような絶景―――彼女が落ちればどうなるかを想像して皆、背筋を凍らせていたのだ。

「あら…?」
「ひっ…!!」

しかも彼女の足元はあまりにも頼りなく、強風によって細い木の枝のように体をふらつかせるので、その度、周りは生きた心地なんてするはずもない。
近づきたくても近づけない。

これは、ある一種の拷問だ…。

「王女様・・・っ!!悪いご冗談はお止しになってくださいましっ・・・っ!!」

血相を変えて今にも倒れそうな女長官は、いつもの険しい表情がよりいっそ恐ろしく変貌する。
それはまさにわが子が崖の下にでも落下しそうな場面を目撃した母親そのもの―――事実、この女官長はこの第三王女が生まれてこの過多、時には厳しく、時には優しく、亡くなった母親の代わりとなって可愛がってきたのだ。
その少女の全てを己こそが理解しきっていると、そう胸を張っていた嘗ての自信を失うような彼女の行動に、女官長はいつになくうろたえていた。
窓淵に立つ少女に触れようとしても下手に刺激できない現状に、珍しくおろおろと狼狽している様が面白いぐらいに伺える。

「分かりました・・・っ!私<わたくし>が陛下直に王女様のお心の内をお伝えいたしましょう・・・っ!!ですから王女様!!お早くそこからお離れになってくださいませ!!」
「まぁまぁ…けれどね、アナシア。私は王女だから、結婚しなくてはならないのでしょう?アナシア、あなたも私にそう言ったじゃない」

確かに…確かにそう言った―――言ったけれども…!!

「ならば私<わたくし>に一体何が出来るのか・・・どうすればよろしいのでしょう・・・っ!!―――王女様、どうかこのアナシアを悲しませないでください!!」
「ごめんなさい」

にっこりと、それこそこちらがため息を吐きたいぐらいの万遍な笑みに、文字通り中年を過ぎた女官長は後ろに倒れそうになった。
間違いない。彼女は間違いなく己を泣かす結果になる事は、この数年の付き合いからすでに分かっていたのだ。

「アナシア様っ!!」
「女官長・・・っ!!お気を確かに・・・っ!!」
「―――ええ・・・大丈夫よ・・・。私<わたくし>は大丈夫・・・」

どうにか、侍女達の手に助けられ、立っていられるがその顔色から疲れが伺える。
城で働く侍女達の、尻を叩く役目として恐れられてきた女官長の弱り果てた姿に、そこに集まった侍女達の多くが同情した。
ここ数日―――昨日婚約発表がされる前から、それこそ目覚ましいほど準備に追われて走り回っていた彼女を思えば、それはなお更である。

―――何故こんな事に・・・

やはりそれは彼女と、隣国・レドリスト王国の第二王子との婚姻が決まったのがきっかけとなったのだろう。
国同士の和解を深める意味合いでの今回の婚姻に無論、愛があるものでは無く、しかしこれを断ろうなどと考える王国はもはや皆無に等しい。
それどころか、己の娘を政治の武器として使うのが王族にとってもはや順当なのだから、それを当たり前に生きてきた彼女の突然のわがままに誰もが疑問を抱いた。

「何事!!」

どこか決まったような、誠実な声が大間に繋がる大廊下から響いた。
兵士に賛同して連れて来られた、40代に突入した将軍がちょうど角から姿を現し、どこか急に老いたような女官長と集まった侍女達―――そして今にもその窓から鳥のように翼を広げて飛び降りそうな王女の姿を目に射止めるなり、翡翠の瞳が見開かれた。

「プリンセス・・・っ!!一体何をしていらっしゃる!!」
「アゼフ殿・・・」
「女官長殿、これは一体どういう事でございましょう。婚約前のプリンセスに何か事が起こらないためのあなたではございませぬか・・・っ!!」
「―――申し訳ございません」

危機に駆けつけた将軍の、焦ったような叱咤に、女官長は自分の非を悔やむように俯いた。

「アゼフ。アナシアを責めないで頂戴。これは私のわがままなのよ…」
「皆から事情は伺いました。一体何故…何故今このような…―――私はあなたから一度も婚姻についてご不満をお聞きした事がございません…。貴方がそのような行動をお取りになられたのにも、本当はもっと別の理由があるのではございませんか?」
「いいえ、アゼフ。―――ただ、私にはどうしても納得いかないの」

花が綻んだような笑みを浮かべて少女はもはや楽しんでいるかのように肩を竦めて見せる。
どうやら、大物達のあまりにもの慌て様が珍しくてしょうがないらしい。

「結婚は嫌なの。病気で寝込んでいる不健康な夫なんて欲しくないわ。やっぱり愛がなくちゃ」
「そのような心配事。隣国の王子殿は目に眩しいほどご立派なお方だとお聞きいたしました。苦楽を共にお過ごしになりますれば、愛情も花のように自然と育まれるもの。ご心配には及びませぬ」
「一度も会ったことが無い方なのよ。侍女達の噂では、意地悪でわがままな方だと聞いたもの」
「あなた達、そのような風の噂をまだ・・・っ!!」

青い顔を尚青くして、女官長どころか、将軍すらもとっさに、殺気立った視線が目線を逸らす侍女達に注がれた。

「良い噂も悪い噂すらも、それだけ婿殿が有能だという証。王女も一見致しますれば、きっとその憂いもお拭いなされる事でしょう―――ささ、プリンセス、春が訪れたとはいえ、まだ肌寒い気候。嫁入り前のご婦人に風邪でも召されるのは大変心苦しい。もしよろしければ、この私めと共に庭園を遊歩いたしましょう。城内にあるので寒風に当たる心配も無く、今は確か薔薇が開花した頃合でしょうか?」
「それは素敵だわ!!」

手を合わせて喜ぶ少女に、好機と言わんばかりにアゼフは刺激しないよう、手を挿し伸ばしつつ更に一歩近づいたその刹那。
少し肌寒い突風が全快に開かれた窓から室内に駆け込み、危機に身動きできない侍女達は思わず豪快に宙に浮きそうになった己のスカートを掴んだ。
しかし一方の少女は―――この王国の第三王女だけはそんな風のいたずらに構うことなく、ドレススカートをなすがままにしているため、中に隠れたペイコートが兵士達の目に飛び込む。

「失礼・・・っ!!」

例え強堅な兵士達と言えど、下着を見て目線を逸らさずにはいられない。
アゼフすら顔を赤らめ右に倣って視線を落としたていたのだが、少女が踵を返すのを見てしまえば、その顔は死人のように青ざめた。

「お止めなさい!!」

走り出したい衝動を堪えて、それでも手を伸ばす。
一方の少女はその風を愛でる様に手を広げ、彼女を歓迎する強い風がまるで飛ぶ事を促しているようだった。

「―――そうねぇ、あなたと庭園探索も素敵だわ。けど私はやっぱり外の世界が見てみたいの」
「プリンセス!!どうしても城下町に下りたいとおっしゃるならば私が同行致しましょう!!ですから!!間違ってもそこから飛び降りようなどとは・・・っ!!」
「大丈夫。だって私は丈夫だけが取り柄なのよ。この高さぐらいからなら・・・たぶん死んだりしないわ」
「た・・・!!たぶんなどという想定など信じず、もっと疑って下さいませ!!落ちてからでは取り返しがつかないのですよ!?」
「大丈夫大丈夫―――落ちても少し怪我をする程度よ」
「王女様!!」

今にも泣いてしまいそうな女官長の悲鳴に、やはり少女は残酷にもその現状を楽しんで微笑んでいるのだ。
彼女の言うとおり、例え絶望のこの高さから落下したとしてもこの王女ならば無事生還出来ることだろう。
むしろ何事もなかったように、今と同じくして花が咲き綻ぶような微笑みを最後まで浮かべているに違いなかった。

―――彼女のうちに存在する、類まれなる運動能力の才は、人より少し優れているなどという基準とはまったくの別物。

例え彼女がこの雲の上から飛び降りようとも、体に傷一つ負わない事を城の者達も知ってはいるが、しかしここでもまた問題が一つ。
今まで一度たりとも『外』へ出した事が無い麗しの王女を解き放ってしまえば、濁りきった世はそれを逃さない。
何をしても目立ってしまう王族が、何の知識も護衛も無しに飛び出したのを、鼻の聞く賊どもがそれを見逃すとも思えない。
最悪―――彼女を発見できず、その報が国境を抜けた隣国へ届き、それが親睦を深める事に支障をきたすのはなんとしてでも避けたかった。

それだけではない。

女官長と競うように同じく、第三王女の成長を見守ってきた者としては、彼女を不幸にする全てから守ってやりたいのだ。
けれどそんな彼女達の決意を打ち砕くように、少女はその身を風に委ねた。
途端に、小さなその体は、その場にいた使用人たちの前から忽然と消え去った。
弾かれたように、アゼフが突風のような速さで、窓に駆け寄って手を伸ばす。

「プリンセスっ!」

アゼフは身を乗り出し、背を向けた王女のドレスの裾をどうにか掴んだものの、それはすでに手遅れ。

「―――いってきます」

豪快にドレスの裾が破れる音と共に、手に掴んだ王女の重みがなくなる。

―――落下。

本当にこの少女が自分の手の届かない所へ行ってしまう。



「プリンセスゥウウウウ―――ウウウウウっ!!!!」




己すらも落ちてしまいそうなほど窓から身を乗り出したアゼフの叫びは、既に姿が豆粒にまで落下してしまった少女には届かない。

「離せぇええっ!!プリンセスが・・・っ!!プリンセスがぁあ―――ぁああっ!!」
「お気を確かに、アゼフ様!!あなたまで落ちてしまっては元も子もございませんっ!!」
「誰か手を貸してくれっ・・・!!―――将軍がご乱心なさったぞ!!」

端切れを握り締め、今にも後を追いかけて落ちてしまいそうな巨体を、部下達はどうにか留めるが精々だった。

「ああ・・・っ!!」

それを呆然と見届ける事しか出来なった女官長は、片手を額に当てたまま、眩暈に流されて豪快に後ろへ倒れれば、ばたばたと侍女達が騒ぎ始める。

「女官長様!!」
「早く王にご報告申し上げなければ・・・っ!!」
「誰か医者を!!女官長殿を寝室にまで運びになって!!」

制御不能の将軍。
意識不明の女官長。

上の者達がそろいもそろって、今に始まったことではない―――むしろ今更である王女の度肝を通り越した行動(嫌がらせ)に力尽きる中、今動くべきはその配下の者達だった。
少女の言った通り、彼女の生存報告が巡回役の兵士による目撃情報によって通達されたのはまもなく事。
そして街中が妙に騒がしくなったのは言うまでもなく、しかしそれは別の意味。

その空に赤い『モノ』が浮遊している―――

つい最近住み着いた『燐山の化け物』が現れたと、そんな不吉な騒ぎと同時に少女がいなくなったのだ。
余談ながら―――それを聞いた女官長と、将軍は、もしも王女が無事にこの城へ生還したならば、責任を取って引退し、ひっそりと隠居する事を心に決めたという。






推敲更新日

2007年10月05日

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